遠州国分寺の瓦を読む
このページでは、出土した瓦を手がかりに、遠州国分寺をつくり、保ちつづけた営みを読み解いていきます。
このページで読めること
- 瓦とは何か ── 屋根材であり、国家事業の痕跡
- 軒丸瓦・軒平瓦と、その文様
- 瓦づくりに必要な技術
- 瓦窯との関係 ── 掛川と寺谷
- 文様から見える時代性
- 瓦づくりと運搬を支えた人々
1瓦とは何か ── 屋根材であり、国家事業の痕跡
瓦は、屋根を葺くための焼き物です。粘土を成形して窯で焼き、雨や火に強い屋根をつくります。けれども、奈良時代に瓦葺きの屋根を持つということは、いまの私たちが思うよりもずっと特別なことでした。当時、ふつうの建物の多くは草や板で屋根を葺いており、瓦で屋根を覆えるのは、官の施設や寺院など、ごく限られた建物だけだったのです。
つまり、瓦は単なる建材ではなく、その建物が国家の事業によって建てられた特別な場所であることを示すしるしでもありました。遠州国分寺の金堂や塔、講堂の屋根に整然と並んだ瓦は、遠くから見る人々に、ここが国家の威信をかけた寺院であることを語りかけていたはずです。瓦を読むことは、屋根材を観察することにとどまらず、その背後にある国家事業の規模を読むことにつながります。
そして、瓦は丈夫であるがゆえに、千年以上の時を越えて地中に残りました。事実遠州国分寺跡からは、軒先を飾る軒丸瓦(のきまるがわら)や軒平瓦(のきひらがわら)が出土しています。建物そのものは失われても、瓦の破片は、かつてここにどれほどの屋根があったかを、いまに伝えてくれるのです。地面に落ちた一片の瓦が、古代の壮大な伽藍を想像する手がかりになります。
2軒丸瓦・軒平瓦と、その文様
瓦には、いくつかの種類があります。屋根の面を覆う平らな瓦や、その継ぎ目を覆う丸い瓦に加えて、屋根の縁=軒先を飾る特別な瓦がありました。それが、軒丸瓦と軒平瓦です。事実軒丸瓦は、軒先に並ぶ丸瓦の先端を円い面で飾るもので、しばしば蓮華文(れんげもん)が施されました。蓮の花をかたどった文様で、仏教の世界観を象徴します。
一方の軒平瓦は、軒先に並ぶ平瓦の先端を横長の面で飾るもので、唐草文(からくさもん)などの流れるような文様がよく用いられました。これらの文様は、屋根の縁をぐるりと一周し、見上げる人の目を楽しませると同時に、雨水を整えて落とす実用の役割も果たしました。美しさと働きを兼ね備えていたのです。
こうした軒先の文様は、ただの装飾ではありません。文様の細かな形は、瓦をつくった工人の集団や、つくられた時代によって少しずつ異なります。そのため、出土した軒瓦の文様を見比べることで、推定どの時期に、どの系統の工人がこの瓦をつくったのかを推し量ることができます。文様は、瓦に刻まれた一種の「署名」のようなものだといえるでしょう。
3瓦づくりに必要な技術
一枚の瓦が屋根に並ぶまでには、いくつもの工程と、それぞれに熟練を要する技術が必要でした。まず欠かせないのが、よい粘土です。瓦に適した粘りと焼き上がりを持つ土を探し、掘り出すところから仕事は始まります。掘った土はそのままでは使えず、不純物を除き、水を加えてよく練り、均一でなめらかな状態に仕上げなければなりません。この「土づくり」の良し悪しが、瓦の出来を大きく左右しました。
次に成形です。練った粘土を型や木枠を使って所定の形に整えます。軒瓦の文様は、文様を彫った型(笵=はん)を粘土に押し当てて写し取りました。同じ型を使えば、同じ文様の瓦を数多くつくることができます。形を整えた瓦は、すぐには焼けません。十分に乾燥させ、含まれる水分を抜いておかないと、焼くときに割れてしまうからです。乾燥には、天候を見ながらの時間と手間がかかりました。
そして最後が焼成(しょうせい)です。乾いた瓦を窯に詰め、高い温度で焼き締めます。火の通り方や温度の管理が難しく、焼きが甘ければもろく、焼きすぎれば歪んだり割れたりします。窯のなかでどこにどう瓦を積むか、どれだけの薪を、どのように燃やすか――こうした勘どころは、長い経験によって受け継がれる職人の技でした。事実これだけの工程を、国分寺の屋根を覆うのに必要な膨大な枚数ぶん繰り返したことを思うと、瓦づくりが国家的な事業であったことが実感されます。
4瓦窯との関係 ── 掛川と寺谷
瓦は、寺の建つ場所でそのまま焼かれたわけではありません。瓦を焼くには、よい粘土と、焼成に使う大量の薪、そして窯を築くのに適した地形が必要です。そのため、瓦窯(がよう)は、これらの条件がそろった場所に設けられました。事実遠州国分寺・国分尼寺の瓦は、主に掛川市(旧大須賀町)の窯で焼かれ、そこからはるばる運ばれてきたと考えられています。
遠州国分寺の建つ磐田から、掛川市の旧大須賀町までは、かなりの距離があります。そこで焼かれた重い瓦を、国分寺の屋根を覆うのに足るだけの枚数、運び続けたのです。これは、瓦づくりそのものと並んで、大きな労力を要する事業でした。瓦窯の場所を知ることは、当時の人と物の流れ、すなわち古代遠江の物流のありようを知ることでもあります。
さらに、事実後の時代、屋根の修復のためには、磐田市寺谷でも瓦が焼かれました。建てたときだけでなく、傷んだ屋根を直しつづけるためにも、瓦は繰り返し必要とされたのです。創建のときの瓦窯と、修復のための瓦窯――この二つの存在は、遠州国分寺が一度建てて終わりではなく、長く維持されつづけた施設であったことを物語っています。瓦は、寺の一生に寄り添う材だったといえるでしょう。
5文様から見える時代性
軒瓦に施された蓮華文や唐草文は、時代や地域によって少しずつ姿を変えていきました。花弁の数や形、輪郭の太さ、中心の表現、蔓のうねり方――こうした細部は、流行や、瓦をつくった工人集団の系統を反映します。そのため、出土した軒瓦の文様を丹念に比べることで、推定その瓦がいつ頃つくられたものか、どの系統に連なるものかを、おおよそ読み取ることができるのです。
遠州国分寺の場合も、創建のときに葺かれた瓦と、後の修復のために焼かれた瓦とでは、文様に違いが見られると考えられます。新しく焼かれた瓦は、その時代の文様を映しているからです。こうして、屋根に並んだ瓦は、いわば建物の「補修の履歴」を文様で語っているともいえます。一枚一枚の瓦は、それがつくられた瞬間の時代の空気を、文様というかたちで閉じ込めているのです。
もっとも、文様だけからすべてを断定できるわけではありません。型が長く使い回されたり、別の場所から運ばれた瓦が混じったりすることもあります。だからこそ、文様の研究は、出土した場所や、ともに見つかった他の遺物とあわせて、慎重に進められます。瓦の文様を「時代を読む手がかり」として大切にしながらも、そこから言えることと言えないことを見分ける――それが、瓦を読むということの面白さでもあります。
6瓦づくりと運搬を支えた人々
ここまで見てきたように、遠州国分寺の屋根を覆った瓦の背後には、気の遠くなるような労働がありました。よい土を探して掘る人、土を練る人、型で成形する人、乾燥を見守る人、窯で焼く人、そして焼き上がった重い瓦を、掛川から磐田まで運び続けた人々。その一人ひとりの手を経て、ようやく一枚の瓦が屋根に並んだのです。屋根全体を覆う膨大な枚数を思えば、そこに費やされた人々の力の総量は、想像を絶します。
瓦づくりや運搬に従事した人々の多くは、おそらく名を残していません。けれども、地面から出てくる瓦の一片には、彼らの労働がたしかに刻まれています。瓦を読むことは、文様や技術を読むだけでなく、その瓦を生み出し、運び、屋根に葺いた、無数の手のことを想像することでもあります。国分寺という巨大な事業は、こうした人々の労働の上にはじめて成り立っていました。
そして、その人々が暮らし、働いた土地が、いまの磐田です。瓦を焼いた土も、瓦を運んだ道も、瓦が葺かれた屋根の下の地面も、すべて現在の磐田の風景につながっています。一枚の瓦から、古代に生きた人々の労働と暮らしを思い浮かべるとき、私たちが歩く土地の奥行きが、少しだけ深くなります。遠州国分寺の瓦は、千年を越えて、いまも静かにそのことを語りかけているのです。
参考文献・参考資料
- 『遠州国分寺の研究』
- 磐田市公式ウェブサイト「遠江国分寺跡」「遠江国分寺跡整備事業」
- 磐田市観光協会「遠江国分寺跡」「遠江国はじまりの地~磐田に刻まれた歴史をたどる旅」
- 大林組「季刊大林 No.8『寺』── 遠江国分寺の復元」(1980)※復元構想として参照
- 国指定文化財等データベース/日本歴史地名大系
- 制作者による現地確認・追加調査メモ
本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものです。本文・写真・図面の転載は行っていません。掲載図版は、WEB説明用として新規に作成した模式図であり、瓦文様も含めて実物を忠実に再現したものではありません。事実と推定は本文中で区別しています。