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磐田物語遠州国分寺特集 / 遠州国分寺とは何か
特集 | 国分寺制度

遠州国分寺とは何か
── 国家が地方に置いた巨大施設

遠州国分寺を「地元の古いお寺」だと考えると、その本当の大きさを見失います。これは、奈良時代の国家が、全国の国ごとに一斉に置いた施設のひとつでした。
このページでは、国分寺とはそもそも何のための場であったのか、なぜ国家がそれを地方につくったのかを、聖武天皇の詔(みことのり)と律令国家のしくみからたどります。遠州国分寺を、古いお寺ではなく、国家が遠江国に置いた宗教・政治・文化の装置として読み直してみます。

このページで読めること

  1. 国分寺とは何か ── 一国にひとつの官立寺院
  2. 奈良時代の国家政策と律令のしくみ
  3. 聖武天皇と鎮護国家 ── 祈りによる国の安定
  4. 天平13年「国分寺建立の詔」と正式名
  5. 全国に置かれた僧寺と尼寺
  6. 遠江国における意味 ── 文明の装置としての国分寺

1国分寺とは何か ── 一国にひとつの官立寺院

国分寺(こくぶんじ)とは、奈良時代の中ごろ、国家の命令によって全国の「国」ごとに置かれた、官立の寺院のことです。当時の日本は、畿内を中心に、東は陸奥、西は大隅まで、六十あまりの「国」に分けて治められていました。遠江国(とおとうみのくに)もそのひとつで、現在の静岡県西部、いわゆる遠州にあたります。その遠江国に置かれた国分寺が、遠州国分寺(遠江国分寺)です。跡地は現在の磐田市見付・国府台にあります。

ここで大切なのは、国分寺が「自然に信仰が集まってできたお寺」ではないということです。事実国分寺は、国家がはっきりとした目的を持って、上から計画的に各国へ配置した施設でした。どこに建てるか、どのような建物を備えるか、どれだけの僧を置くか――そうした基本的なことが、中央の朝廷の方針として全国へ示されたのです。一国にひとつ、僧の寺(僧寺)と尼の寺(尼寺)が対になって置かれました。村のお堂とはまったく性格の異なる、国家の事業としての寺院でした。

つまり遠州国分寺を理解するには、まず「磐田の古いお寺」という枠を外す必要があります。これは奈良の都から発せられた国家政策が、遠江という地方の土地のうえに具体的なかたちをとった、その一例なのです。

2奈良時代の国家政策と律令のしくみ

国分寺がなぜ生まれたのかを知るには、当時の国家のしくみを少しのぞいておく必要があります。八世紀の日本は、中国(唐)にならった律令(りつりょう)という法体系のもとで国を治めていました。律令とは、おおまかにいえば「律」が刑罰の法、「令」が行政の法で、戸籍をつくり、田を割りあて、税を集め、役人を各地に派遣して国土をくまなく管理しようとするしくみです。

この体制のもとで、全国は国・郡・里という単位に区分され、それぞれの国には中央から国司(こくし)が送られて、政務を執る役所=国府(こくふ)が置かれました。遠江国の国府は、現在の磐田市見付、淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ=総社)のあたりにあったと考えられています。税や戸籍を扱い、道や駅を整え、地方を中央とつなぐ――律令国家とは、そうした行政の網の目を全国にはりめぐらせた国家でした。

国分寺は、この行政の網と重なるように配置されました。事実建立にあたっては、国府の近く、しかもその国を代表できるような良い土地が選ばれることになっていました。役所のしくみと寺院のしくみが、同じ国家の手によって、同じ地方に並べて置かれた。ここに、国分寺が「祈りの場」であると同時に「統治の装置」でもあった理由があります。律令という骨組みがなければ、これほど整然と全国一斉に寺院を配ることはできませんでした。

3聖武天皇と鎮護国家 ── 祈りによる国の安定

では、なぜ国家はわざわざ全国に寺院を置こうとしたのでしょうか。その背景には、奈良時代なかばの深刻な不安がありました。事実当時、天平年間には疫病が広がり、多くの人命が失われ、加えて飢饉や政争、地方の反乱もあいついでいました。社会の土台が大きく揺らいでいたのです。

このとき国を治めていた聖武天皇(しょうむてんのう)は、仏教の力によって国を安んじようと考えました。これを鎮護国家(ちんごこっか)といいます。仏の教えと加護によって、災いを鎮め、国土と人民を護るという思想です。経典を写し、僧に読ませ、仏を祀ることが、そのまま国の安定につながると信じられていました。後に都の東大寺に巨大な大仏(盧舎那仏)が造られたのも、同じ鎮護国家の思想にもとづいています。

注意したいのは、これが単なる個人の信仰心の問題ではなかったということです。祈りは、国家の政策として制度化されました。全国の国ごとに護国の寺を置き、定められた経典をおさめ、決まった数の僧に日々読経させる。そうすることで、国全体を仏の加護でおおおうとしたのです。遠州国分寺もまた、この大きな祈りのしくみの、遠江国における一つの結節点でした。災いの多い時代に、国家がその不安に応えようとした、その答えのかたちがここにあります。

4天平13年「国分寺建立の詔」と正式名

国分寺制度の出発点は、一つの命令にあります。事実天平13年(741年)、聖武天皇は「国分寺建立の詔」を発しました。これによって、全国の国ごとに僧寺と尼寺を建てることが、国家の方針として正式に定められたのです。詔とは天皇の命令の文書で、これは地方政策と宗教政策が一体となった、当時としては桁外れの規模の事業の号令でした。

このとき、寺には正式な名が与えられました。事実僧寺の正式名は金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、尼寺の正式名は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)です。僧寺の名は『金光明最勝王経』という護国の経典に、尼寺の名は『法華経』にちなみます。名そのものが、護国と罪の滅却という、この事業の目的をそのまま表しています。遠州国分寺の正式名も、もちろんこの金光明四天王護国之寺です。私たちが「国分寺」と呼んでいるのは、いわばその通称なのです。

制度の出発点
天平13年(741年)「国分寺建立の詔」事実
命じた人物
聖武天皇
僧寺の正式名
金光明四天王護国之寺
尼寺の正式名
法華滅罪之寺
思想的背景
鎮護国家 ── 仏の力で国土と人民を護る
遠江国の国分寺
遠州国分寺(跡地=磐田市見付・国府台)

5全国に置かれた僧寺と尼寺

この詔によって、国分寺は全国規模で建てられていきました。事実当時の日本は六十あまりの国に分かれており、その各国に僧寺と尼寺が一対ずつ置かれたと考えられています。資料によって数え方には幅があり、推定たとえば建築技術の側からこの事業を検討した大林組の復元構想では、対象を64ヵ国とする見方も示されています。国の数え方には諸説があるため、ここでは「全国60余か国」とおさえておくのが穏当でしょう。

いずれにせよ、北は陸奥から南は九州まで、ほぼ同じ時期に、ほぼ同じ目的の寺院が一斉に建てられたという事実は、改めて考えると驚くべきものです。これだけの数の寺院を、まとまった構想のもとに全国へ配置できたのは、先に述べた律令という国家のしくみがあったからにほかなりません。推定建立にあたっては、唐から帰った僧・道慈が関わり、建築の指針となるような設計の手本が各国へ示されたとも伝えられますが、その具体的な資料は見つかっておらず、伝承の域を出ません。

そして遠州国分寺は、この全国にひろがる祈りの網の、遠江国における一点でした。磐田の地に立つ国分寺を見ることは、同時に、奈良の都から発せられた国家の構想が、列島のすみずみまで及んでいたことを見ることでもあります。

中央の朝廷 聖武天皇・天平13年 国分寺建立の詔 全国60余か国(数え方には諸説あり) ○○国 国分寺 国分尼寺 遠江国(遠州) 遠州国分寺 国分尼寺 △△国 国分寺 国分尼寺 一国ごとに、僧寺(国分寺)と尼寺(国分尼寺)を一対ずつ配置 … 同様のしくみが全国の国々にひろがる … 国分寺の機能:護国の祈り/経蔵(経典の保管)/鐘楼(時を告げる) 僧の教育/月例の説法 ── 地域の宗教・文化・文明の装置
国分寺制度の概念図(模式図)。中央の朝廷が発した詔のもとで、全国の国ごとに国分寺と国分尼寺が一対ずつ置かれたしくみを示しています。国の配置・数・大きさは正確ではなく、関係を示すための図です。WEB説明用の模式図。実測図ではありません。

6遠江国における意味 ── 文明の装置としての国分寺

ここまで見てきたように、遠州国分寺は「古いお寺」ではなく、国家が遠江国という地方に置いた、宗教・政治・文化の複合施設でした。最後に、その「文化・文明の装置」としての側面に触れておきます。国分寺がもたらしたものは、祈りだけではなかったからです。

推定国分寺には、護国の経典をおさめる経蔵(きょうぞう)が備わっていたと考えられます。経蔵は、いわば当時最先端の知識を集めた図書の蔵でした。また鐘楼(しょうろう)の鐘は、人々に時を告げ、一日の区切りや法会の合図を空にひびかせました。僧たちはここで経典を学び、月ごとに人々へ向けて説法を行ったとも伝えられます。寺はまた、僧房・食堂(じきどう)といった生活の空間も備えた、ひとつの大きな共同体でした。

つまり遠州国分寺は、最新の文字文化、知識、時間の制度、教育、儀礼が、遠江という地方の土地のうえに集約された場でもあったのです。都から運ばれてきた経典、唐風の建築技術、瓦を焼く技、巨大な塔を組む工法――それらが一度にこの台地へ持ち込まれました。地方にとって国分寺は、中央の文明が形をとって立ちあらわれた、目に見える窓口だったといってよいでしょう。

国分寺は、祈りの場であると同時に、地域社会の中心でもありました。では、なぜその中心が、ほかでもない現在の磐田に置かれたのでしょうか。次のページでは、立地と地理の側からその理由を考えます。

参考文献・参考資料

本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものです。本文・写真・図面の転載は行っていません。掲載図版は、WEB説明用として新規に作成した模式図であり、実測図ではありません。事実と推定・復元案は本文中で区別しています。

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