磐田物語。遠江・見付のまちの歴史と文化
磐田物語 / 御殿・二之宮遺跡と、二つの時代が眠る原
古代の磐田 | 国府と御殿の記憶

御殿・二之宮遺跡と、
二つの時代が眠る原

磐田駅の近く、中泉のあたりに、御殿遺跡公園という、こぢんまりとした公園がある。なんでもない原のようだが、この地面の下には、二つの時代が重なって眠っている。奈良時代、遠江国の役所――国府があったかもしれない場所。そして戦国の世、徳川家康が御殿を築いた場所。古代と近世が、ひとつの土地に折り重なっている。
戦国〜近世 中泉御殿 徳川家康が築いた将軍の宿泊・休憩施設 奈良時代 遠江国府か 古代の大規模な建物跡・大量の出土品 地表 地中
御殿・二之宮遺跡には、奈良時代(遠江国府の有力候補)と戦国〜近世(家康の中泉御殿)という、二つの時代の遺構が重なって眠っている。(時代の重なりをもとにした模式図)

これまで、見付のあたりに残る古代磐田の中心――国分寺、府八幡宮、淡海國玉神社――をたどってきた。それらは、見付が遠江国の中心だったことを物語っていた。だが、その中心にあったはずの一番大事な施設、つまり国の役所そのもの「国府」が、いったいどこにあったのか。これが、じつははっきりしていない。その有力な候補地の一つが、ここ、磐田駅にほど近い中泉の、御殿・二之宮遺跡なのである。

どこにあったのか、遠江国府

国府とは、奈良・平安の時代に、国を治める役所が置かれた場所である。遠江国の国府が、この磐田のどこかにあったことは、まず間違いない。「見付」という地名が「みつけの府」と呼ばれたことも、府八幡宮の社名も、すべて国府の存在を前提にしている。けれど、では具体的にどこに、その役所の建物が建っていたのか――これが、長く謎とされてきた。

候補地は、いくつか挙げられている。一つは、国分寺跡の北側、磐田北小学校から大見寺のあたり。そしてもう一つの有力な候補が、磐田駅の南に近い、この御殿・二之宮遺跡である。ここからは、奈良時代の土器や石器、木製品などが大量に出土し、古代の大規模な建物の跡が発掘されている。役所のような、格式のある大きな建物が建っていた可能性が高い。確たる証拠で「ここが国府だ」と言いきるには、まだ研究の余地があるものの、古代のこの地に、重要な施設があったことは確かなのである。

歴史は、すべてが明らかになっているわけではない。むしろ、わからないことの方が多い。けれど、わからないからこそ、想像する楽しみがある。この公園の地面の下に、千二百年あまり前、遠江国の役人たちが行き交う役所があったかもしれない。そう思って立つと、なんでもない原が、にわかに奥行きをもって見えてくる。

家康が築いた、中泉御殿

この遺跡が「御殿」という名を持つのは、古代のためではない。時代がぐっと下って、戦国の世の話である。天下を狙う徳川家康が、この地に「中泉御殿」を築いたことに由来する。

『遠州中泉古城記』という記録によれば、家康は家臣の伊奈忠次に命じて、天正十二年から十五年(1584〜88年)にかけて、ここに御殿を築かせたという。「御殿」とは、将軍や大名が旅行や外出の際に泊まったり、休んだりするための施設である。江戸時代を通じて、全国に九十か所ほど設けられた。中泉御殿の敷地は、約一万坪もあったと伝えられる。絵図によれば、敷地の北側には土塁と水堀をめぐらし、南側は湿地に面した、守りの堅い場所だったという。

なぜ家康が、この地に御殿を築いたのか。それは、磐田・中泉が、古くから交通の要であり、遠江を治めるうえでの要所だったからにほかならない。家康は遠江国を支配していく過程で、この地を戦略的な拠点と見定めた。古代に国府が置かれた(かもしれない)土地が、千年近くを経て、今度は天下人の拠点として選ばれた。土地のもつ地理的な重みは、時代をこえて、人を引きつけるのである。

重なりあう、時間の層

御殿・二之宮遺跡のおもしろさは、まさにこの「重なり」にある。一つの土地に、奈良時代の国府(の可能性)と、戦国時代の家康の御殿という、まったく別の時代の重要施設が、層をなして眠っている。さらにこの遺跡は、弥生時代から中世まで、長い時間にわたって人が暮らしを営んだ場所でもある。地面を掘れば、いくつもの時代が、地層のように現れてくるのである。

今、その大規模な建物の跡は、御殿遺跡公園として保存され、どこに何があったのか、その位置がわかるように示されている。派手な復元建物があるわけではない。けれど、足もとに眠るものの大きさを知って歩けば、この静かな公園は、時間の厚みをたたえた特別な場所に変わる。古代の役人も、戦国の家臣たちも、同じこの地面の上を歩いたのだと思うと、不思議な感慨がわいてくる。

次の世代へ、手渡したいもの

御殿・二之宮遺跡は、ただの原っぱの公園なのではない。ここは、遠江国府の有力な候補地であり、徳川家康の御殿があった場所であり、弥生以来の人の営みが積み重なった、時間の交差点である。一つの土地に、これほど多くの時代が折り重なっている場所は、磐田でもそう多くはない。

目に見える建物がないと、歴史はつい忘れられる。だが、見えないからこそ、知ることに意味がある。この公園が、古代と戦国の二つの中心だったと知っているかどうかで、同じ風景が、まるで違って見えてくる。残すべきは、立派な復元建築だけではない。「ここには時代が重なって眠っている」という知識そのものが、まちの大切な財産なのである。

御殿遺跡公園を子どもと歩くとき、ひとこと伝えてみる。「この公園の下にはね、昔のお役所と、家康のお屋敷が、重なって埋まっているんだよ」と。なんでもない芝生が、急に、千年の時間をたたえた場所に見えてくる。次の世代へ残したいのは、そうやって「足もとの土の下を想像する」まなざしなのだと思う。

主な参考

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