遠江・見付のまちの歴史と文化
磐田物語 / 行興寺と熊野の長藤

其の十六 | 祭りと信仰

行興寺と熊野(ゆや)の長藤
── 紫の花に宿る、平家物語の記憶

四月、磐田市池田の行興寺は紫の藤に覆われる。国の天然記念物「熊野の長藤」。その名は、平家物語や能『熊野』に語られる女性・熊野御前に由来する。確かな事実と、語り継がれた物語の重なりを、一本の藤からたどってみたい。

熊野(ゆや)の長藤 ── 国指定天然記念物
行興寺の藤棚。国指定1株と県指定5株の蔓が一面に広がる。花房は長いもので約1.5メートルに達する。(イメージ図)

四月の中ごろ、磐田市池田の行興寺(ぎょうこうじ)の境内は、紫の雲に覆われる。一・五メートルにも垂れ下がる藤の花房が、棚いっぱいに揺れる。国の天然記念物「熊野(ゆや)の長藤」である。その「ゆや」という名は、地名ではない。ひとりの女性の名に由来している。

紫のカーテン ── 国の天然記念物

行興寺の藤は、昭和七年(一九三二年)七月二十五日に、国の天然記念物に指定された。品種はノダフジ。推定樹齢は約八百五十年とも伝えられる古木で、根もとの周囲は約一・八メートル、花房は長いもので一・五メートルに達する。文化庁の記録も「藤の巨樹として有数のもの」と記している。

境内には、この国指定の一株のほか、静岡県の天然記念物に指定された五株もあり、合わせた蔓(つる)が一面の藤棚に広がる。見頃の時期には「池田・熊野の長藤まつり」が開かれ、夜にはライトアップもされる。花の盛りは年によって前後するため、訪ねるなら開花情報を確かめてからがよい。

熊野御前と、平宗盛 ── 伝えられる物語

ここから先は、史実というより、語り継がれてきた伝承である。藤を植えたと伝わるのは、熊野御前(ゆやごぜん)という女性だ。言い伝えでは、彼女はこの地・池田の荘(しょう)の長者の娘であった。平安の末、平家の貴公子・平宗盛(たいらのむねもり)に見初められて都へ上り、寵愛を受けたという。

やがて、故郷の母が重い病にあると知った熊野は、帰郷を願う。その切ない心を歌に託した挿話が、よく知られている。母の冥福を祈ってお堂を建てたのが行興寺の始まりと伝わり、境内の藤も、熊野が植えたもの、あるいはその子孫の木だといわれている。寺の創建年や宗派については、はっきりした記録が乏しく、ここでは「そう伝えられている」とだけ記しておきたい。

花の名に、ひとりの女性の名が残っている。母を思い、故郷を思ったその人の心が、八百年の藤となって、今も春ごとに咲く。

能『熊野』の舞台として

熊野御前の物語は、能(謡曲)の名曲『熊野(ゆや)』として、いまも舞われ続けている。世阿弥の作と伝えられ、『平家物語』の一場面をふくらませたものと考えられている。劇中に出てくる「遠江の国・池田」が、この磐田市池田にあたる。境内には、熊野御前の墓と伝わるものも残る。

国の天然記念物という確かな事実と、能や言い伝えに彩られた物語と。その両方が一本の藤に重なっているところに、この花の奥行きがある。春、紫のカーテンの下に立つとき、花の美しさだけでなく、そこに託された誰かの祈りにも、そっと耳を澄ませてみたい。

行興寺と長藤の手がかり

行興寺
磐田市池田。天竜川左岸。境内に「熊野の長藤」と熊野御前の墓と伝わるものがある。
熊野の長フジ
国指定天然記念物(昭和7年7月25日指定)。ノダフジ、推定樹齢約850年。国指定1株+県指定5株。
藤まつり
例年4月中旬〜下旬が見頃。ライトアップあり。会期・駐車場は年により変動。
留意
熊野御前・平宗盛の物語、寺の創建年・宗派は伝承・郷土史によるもの。

主な参考

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