遠江・見付のまちの歴史と文化
磐田物語 / 一言坂の戦い

其の十五 | 戦国・近世の磐田

一言坂の戦いと、本多忠勝の殿(しんがり)
── 磐田で武田軍を相手にした日

元亀三年の秋、武田信玄の大軍が遠江へ攻め込んだ。天竜川をめぐる攻防のなか、磐田の一言坂で家康軍は決死の退き戦にのぞむ。最後尾を引き受けた若き本多忠勝の武勇は、一篇の落首とともに、四百五十年を越えて語り継がれている。

一言坂 武田軍 徳川軍(殿=本多忠勝) 元亀三年、武田軍を相手にした退き戦
都へ攻め上る武田軍に対し、徳川軍は退き戦を選んだ。最後尾の殿(しんがり)を引き受けたのが本多忠勝である。(位置関係を示した概念図)

いま磐田市の一言(ひとこと)あたりは、田と住宅の広がる、ごくふつうの郊外に見える。だが今からおよそ四百五十年前、この坂で、徳川家康の軍勢が、甲斐の武田信玄の大軍を相手に、命がけの退き戦をくり広げた。世に「一言坂の戦い」と呼ばれる合戦である。

武田信玄、遠江へ

元亀三年(一五七二年)の秋、武田信玄は大軍を率いて甲斐を発ち、徳川領の遠江・三河へと攻め込んだ。世にいう「西上作戦」である。信玄は軍を分け、一手を三河へ、一手を美濃へ向かわせ、自身は本隊を率いて遠江を南下した。ねらいは、天竜川沿いの要害・二俣城であった。

家康は、武田の大軍を天竜川より西へ渡らせまいと、本多忠勝(ほんだただかつ)や内藤信成(ないとうのぶなり)を物見(偵察)に出し、自らも軍勢を率いて出陣した。ところが武田軍の進みは家康の予想より速く、偵察に出ていた徳川勢が武田の先発隊と鉢合わせてしまう。兵の数では到底かなわない。家康は、ここは退くと決断した。

本多忠勝、決死の殿(しんがり)

退却でもっとも危ういのは、最後尾である。追ってくる敵を引き受け、本隊を逃がす役――それが「殿(しんがり)」である。この大役を買って出たのが、若き本多忠勝であった。忠勝らは一言坂の下という不利な地形に踏みとどまり、攻めかかる武田の先鋒・馬場信春(ばばのぶはる)の隊を受け止めた。武田方の小杉左近(こすぎさこん)は、本多隊の退路を断とうと後ろへ回り、鉄砲を撃ちかけたとも伝わる。

忠勝は、敵中を切り開いて味方を退かせ、ついに徳川勢は一人も欠けることなく浜松城へと引き上げた、と伝えられる。負け戦の撤退でありながら、殿がみごとに役目を果たしたのである。なお、この合戦に続いて武田軍は二俣城を落とし、年の暮れの三方ヶ原(みかたがはら)の戦いへとつながっていく。一言坂は、その前哨の一戦であった。

負け戦にも、語り継がれる戦いがある。勝った側ではなく、退きながら味方を守りぬいた一人の若武者の名が、四百五十年を越えて、この坂に残った。

「家康に過ぎたるものが二つあり」

この戦いののち、本多忠勝の武勇を称える落首(らくしゅ=風刺や評判を込めた狂歌)が広まったと伝わる。いわく――「家康に過ぎたるものが二つあり 唐(から)の頭(かしら)に本多平八(へいはち)」。家康にはもったいないほど立派なものが二つある、それは唐渡りの毛で作った兜(かぶと)と、本多平八郎忠勝だ、という意味である。

ただし、この落首については、史実と伝承を分けて見ておきたい。誰が詠んだのかは諸説あり、武田方の小杉左近が敵ながら忠勝を称えて書いたとも、別の人物が記したともいわれ、確定していない。「唐の頭」が具体的に何を指すか、内藤信成の兜を含めて二人を讃えた歌だとする見方もある。後年、石田三成の家臣・島左近を讃えて「三成に過ぎたるものが二つあり……」と詠まれたのは、この歌の替え歌である。落首が広まったこと自体は語り継がれてきた話だが、細部は「諸説あり」として受け止めるのがよい。

いま、一言坂を歩く

一言坂のあたりには、「一言坂の戦跡(古戦場)」を示す石碑と案内板が建っている。近くの智恩斎(ちおんさい)の門前には「一言観音(ひとことかんのん)」が祀られ、一生に一度、一言だけ願いを聞いてくれるという言い伝えで親しまれている。家康が殿軍の無事を祈ったとも伝わる。

派手な城も天守も残っていない。残っているのは、坂と、石碑と、地名である。それでも、ここで確かに人が戦い、退き、生きのびた。足もとの坂道に、戦国の一日が刻まれていることを思い出すと、いつもの風景が少しだけ違って見えてくる。

一言坂をたどる手がかり

一言坂の戦跡
戦いの古戦場。石碑と案内看板が建つ。所在地は磐田市一言。駐車場はなし。
一言観音・智恩斎
「一言だけ願いを聞く」と伝わる観音。家康が殿軍の無事を祈ったとも。
年代
元亀3年(1572年)。三方ヶ原の戦いの前哨戦にあたる。
問い合わせ
磐田市観光協会(0538-33-1222)。兵数・日付は史料により幅があり概数。

主な参考

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