遠江・見付のまちの歴史と文化
磐田物語 / 中泉代官所

其の十九 | 戦国・近世の磐田

中泉代官所と、徳川の天領を治めたまち

JR磐田駅の南、中泉には、かつて徳川幕府の役所が置かれ、遠江の天領を治めていた。家康が築いた「御殿」と、民を治めた「代官所」――よく混同される二つを分けながら、徳川の世の中泉と、そこに生きた人々の記憶をたどる。

徳川の天領を治めた、中泉のまち
中泉には家康の休泊所「中泉御殿」と、天領を治める「中泉代官所」が置かれた。(イメージ図)

JR磐田駅の南、中泉のあたりは、いまは住宅と商いの広がる市街地である。だが江戸時代、ここには徳川幕府の役所が置かれ、遠江一帯の幕府領を治めていた。中泉代官所(なかいずみだいかんしょ)である。話を始める前に、まず一つ、混同されやすい二つの施設を分けておきたい。

家康が築いた「中泉御殿」

一つめが「中泉御殿(なかいずみごてん)」である。これは役所ではなく、将軍家の宿泊・休憩のための施設、いわば御茶屋であった。徳川家康が家臣の伊奈忠次(いなただつぐ)に命じ、天正の中ごろ(一五八〇年代後半)に築いたと伝わる。敷地は一万坪ともいわれ、土塁と堀をめぐらせた要害の地だった。

御殿は、ただ泊まるだけの場所ではなかったらしい。密談や軍略の拠点としても使われ、慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いに際しては、家康がここから前線へ向かったとも伝わる。大坂の陣のころには、立ち寄って鷹狩りをしたという話も残る。この御殿は寛文十年(一六七〇年)に廃止され、建物の門は近隣の寺へ移された。いま市内の西光寺(見付)と西願寺(中泉)に残る門が、それで、いずれも磐田市の文化財に指定されている。

天領を治めた「中泉代官所」

二つめが、本題の「中泉代官所」である。御殿が将軍の休泊所だったのに対し、代官所は幕府の領地――天領(てんりょう)――を治める行政の役所であった。御殿が廃された後も、代官所は明治の世になるまで続いた。中泉代官の支配地は時に広く、遠江・三河で六万石を越えたともいう。年貢の取り立て、治水、訴訟の裁き――この地に暮らす人々の暮らしの根もとを、ここから差配していた。

歴代の代官のなかでも、幕末の林鶴梁(はやしかくりょう)の名が知られる。儒学者でもあった鶴梁は、安政の大地震で陣屋の建物が倒れたとき、被災地を回り、蓄えの米や金を窮民に分け与えた。さらに「恵済倉(けいさいぐら)」というしくみを設け、飢饉や災害に備えて民を救う備えを残した。役所は、ただ税を取るだけの場所ではなく、人の暮らしを支える場でもあったのである。

「御殿」と「代官所」。よく似た名で、しばしば一つにされてしまう。だが片や将軍の旅の宿、片や民を治める役所。二つを分けて見たとき、中泉というまちの厚みが見えてくる。

維新と、今に残る面影

明治の世になると、代官は廃され、新政府のもとで中泉には奉行が置かれた。その初代の中泉奉行に任じられたのが、のちに日本の近代郵便制度を築く前島密(まえじまひそか)である。前島は、天竜川の水害で困った人々を救うため、近くの寺と協力して「中泉救院」を開いた。磐田駅前には、その前島の像と、復元された郵便ポストが立っている。

役所の建物は、もう残っていない。けれど、駅のすぐ南の御殿遺跡公園には、家康ゆかりの地であることを伝える碑が立ち、寺に移された門が当時の構えをしのばせる。何気ない市街地の足もとに、徳川の世の役所があり、名代官の働きがあり、近代のはじまりに立ち会った人の足跡がある。中泉は、そういうまちである。

中泉をたどる手がかり

御殿遺跡公園
磐田市中泉。JR磐田駅南口のすぐ南。御殿・代官所のあった一帯。家康像を頂く碑がある。
西光寺の表門/西願寺の裏門
いずれも中泉御殿から移築と伝わる門。磐田市指定有形文化財。
人物
名代官・林鶴梁(恵済倉)。維新後の初代中泉奉行・前島密(中泉救院、近代郵便の父)。
留意
「御殿」(1670年廃止)と「代官所」(維新まで存続)は別の施設・時期。築造年は天正12〜15年と幅がある。

主な参考

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