遠江・見付のまちの歴史と文化
磐田物語 / 遠江国府と古代の磐田

其の一 | 古代の磐田

遠江国府と古代の磐田
── かつて、ここが国の中心だった

磐田駅の周辺は、いまでこそ静かな地方都市の一角に見える。だが千三百年ほど前、このあたりは遠江国というひとつの国の「首都」であった。国府が置かれ、約66メートルの七重塔がそびえていた。足もとに眠る古代の磐田を、史跡をたどりながら見つめ直してみたい。

都(奈良) 近つ淡海 琵琶湖 = 近江(おうみ) 遠つ淡海 浜名湖 = 遠江(とおとうみ) 磐田はこのほとり 都から見て「遠い淡海」── それが遠江の名の由来である
「遠江(とおとうみ)」は、都から遠い淡海(湖)=浜名湖に由来する。近い湖の琵琶湖が「近江(おうみ)」である。

磐田というまちを語るとき、見付宿や見付天神を思い浮かべる人は多い。だが、それよりさらに古い時代——奈良・平安のころ、磐田はもっと大きな役割を担っていた。遠江国という、いまの静岡県西部にあたる一国の政治の中心。つまり「国府」が、この地に置かれていたのである。

「遠つ淡海」の国

まず、遠江という国名そのものに、このまちの土地柄が刻まれている。遠江は「遠つ淡海(とおつあわうみ)」が縮まった言葉で、都から見て遠いところにある淡海、すなわち浜名湖を指す。これに対して、都に近い淡海=琵琶湖のほとりの国が「近江(おうみ)」である。古代の人々は、二つの大きな湖を都からの距離で呼び分けた。磐田は、その「遠い湖」を望む側に開けた土地であった。

奈良時代、律令制のもとで全国は六十あまりの国に分けられ、それぞれに国府が置かれた。国府とは、中央から派遣された国司が政務を執る役所であり、いわばその国の首都である。遠江国の国府は、この磐田の地に営まれた。今の感覚でいえば、県庁所在地が磐田にあったようなものである。

国府は、どこにあったのか

では、国府は具体的にどこにあったのか。これがなかなか奥深い。研究では、遠江国府は時代によって場所を移したと考えられている。

初期の国府は、磐田駅の南側にあたる御殿・二之宮(ごてん・にのみや)遺跡のあたりに置かれたとみられている。この遺跡からは奈良時代の木簡や墨書土器、大規模な建物跡が見つかっており、役所がここにあった有力な手がかりとなっている。その後、平安時代になると、国府は北方の見付の地へ移ったと考えられている。鎌倉時代の紀行文『十六夜日記』などには「見付の国府(こう)」という表現が出てくる。

ただし、国府の正確な位置は、いまも完全には確定していない。御殿・二之宮遺跡説のほか、磐田北小学校から大見寺あたりという説もあり、決定的な証拠はまだ出ていないのである。千三百年の時を経て、土の下で答えが静かに眠っている。

古代磐田 ── 国の中心に並んだ施設 ※ 位置関係を示した概念図(実際の縮尺・方位とは異なる) 大之浦を望む台地 遠江国分寺 約66mの七重塔・特別史跡 国分尼寺(北方) 国府 御殿・二之宮遺跡か 府八幡宮 淡海國玉神社(総社)
国府を中心に、北に国分寺・国分尼寺、東に府八幡宮、西に総社(淡海國玉神社)が配されていた。
古代の磐田は、こうした施設が整然と並ぶ「国の中心」だった。

七重塔がそびえていた

古代磐田を象徴するのが、遠江国分寺である。天平13年(741年)、聖武天皇は、たび重なる災害や疫病に心を痛め、仏の力で国を安んじようと、全国の国ごとに国分寺と国分尼寺を建てるよう命じた。その遠江国版が、この地に建てられた国分寺である。

その規模は、想像を超える。中心の金堂のほか、講堂、中門、回廊が整然と配され、そして高さ約66メートルともいわれる七重の塔がそびえていた。66メートルといえば、二十階建てのビルに相当する。瓦葺きの巨大な塔が、田園の広がる台地の上に立っていた光景を思い描いてほしい。それは、遠くからでも望むことのできる、この国の威信そのものであった。

遠江国分寺跡は、昭和26年(1951年)に発掘調査が行われ、国分寺としては全国で初めて建物の配置の全体像が明らかになった。その学術的価値の高さから、翌昭和27年、国の特別史跡に指定されている。静岡県内で国の特別史跡となっているのは、この遠江国分寺跡と新居関跡の二か所だけである。それだけ、特別に貴重な場所なのだ。

近年も発見は続いている。令和の調査では、隣接する寺の手水鉢が、実は国分寺の七重塔を支えた礎石だったと判明した。千三百年前の柱の根が、姿を変えて今も地域の中に息づいていたのである。

国府の名残は、今も残る

役所としての国府の建物は、とうに失われた。けれど、国府にまつわる場所は、形を変えて今も磐田の中に残っている。

たとえば府八幡宮。「府」の字が示すとおり、国府の守り神として祀られた社で、遠江国府は一時、この境内に置かれていたとも伝えられる。江戸時代に建てられた楼門は静岡県の文化財に指定され、旧国府の中心地に今も静かに立っている。また、見付の淡海國玉(おうみくにたま)神社は、遠江国の総社——国内の神々をまとめて祀る社——とされる。地名にも痕跡は残る。「国府台(こうのだい)」「二之宮」といった地名は、この地が国の中心であった記憶を、そっと今に伝えている。

古代磐田をたどる手がかり

遠江国分寺跡
国の特別史跡。約66mの七重塔をもつ寺院跡。磐田市役所の北方、史跡公園として開放されている。
御殿・二之宮遺跡
初期の国府跡と推定される遺跡。奈良時代の木簡・建物跡が出土。御殿遺跡公園に保存。
府八幡宮
国府の守り神。一時、国府が境内に置かれたとも伝わる。江戸期の楼門は県文化財。
淡海國玉神社
遠江国の総社。見付の旧見付学校に隣接して鎮座する。

足もとに眠る、国の記憶

こうして見てくると、今の磐田の風景が少し違って見えてくる。何気なく通り過ぎる中泉や見付のあたりに、かつて国の役所が建ち、巨大な塔がそびえ、人々が行き交っていた。その記憶は、ふだんの暮らしの中ではなかなか意識されない。けれど、土の下にも、地名の中にも、神社の佇まいの中にも、確かに残っている。

歴史というと、遠い昔のよそごとのように思えるかもしれない。だが、それは私たちが今立っている、まさにこの場所の物語である。足もとに国の中心があったという事実は、このまちに暮らす者にとって、ささやかな、けれど確かな誇りになるのではないか。

消えたものは多い。塔は失われ、役所の跡は土に還った。それでも、誰かが調べ、誰かが書き留め、誰かが語り継げば、記憶は残る。この一篇が、足もとの古代に目を向けるきっかけになればと思う。次は、時代を下って、東海道の宿場町として栄えた見付宿の面影をたどってみたい。

主な参考

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