福田半香と平井顕斎を比較して読む
遠州の南画は一つではなかった
福田半香と平井顕斎は、ともに遠江に生まれ、ともに掛川藩御用絵師・村松以弘に学び、やがて江戸で渡辺崋山の門に入った南画家です。同郷・同門・同じ師という三つの共通点を並べると、二人は一本の線の上にいるように見えます。けれども生まれた土地も、その後にたどった移動の形も、画を交わした相手も、それぞれに違いました。この記事では二人を並べて読み、片方をもう片方の影として扱わずに、遠州の南画がいくつもの筋から成り立っていたことを確かめます。
目次
二人を並べて読む理由
遠州の画人を語るとき、福田半香の名はほとんど避けて通れません。崋山十哲の一人に数えられ、師の蟄居中にその生計を支えようと書画会を開いた人物として、半香は幕末の南画史のなかでも記憶されやすい位置にいます。そのため、同じ遠江出身で同じく崋山に学んだ平井顕斎も、つい「半香の周辺にいた一人」として読まれがちです。けれども、それでは顕斎という画人の輪郭がほとんど消えてしまいます。
二人を並べて読むと、共通点の多さがかえって違いを際立たせます。生地は半香が東海道の宿場・見付、顕斎は榛原郡の青池村。十二歳前後で村松以弘に入門したのは同じでも、江戸へ出た時期も、江戸で最初に師事した相手も異なります。崋山の門に入った順番にも前後があり、そこには先輩と後輩という関係が生まれていました。崋山の死をめぐる動きでも、二人は同じ場面に居合わせながら、それぞれ別の立ち位置から関わっています。
比較は優劣をつけるためのものではありません。どちらが上かを決めようとすると、たいてい資料の多い側が勝ってしまい、片方が付属物になります。ここで試みたいのはその逆で、二人の経路を別々に描いてから重ね合わせ、重なった部分と離れた部分の両方を見ることです。そうすると、遠州の南画が一人の大家から枝分かれした単純な系図ではなく、いくつもの出自と移動が交差してできた網のようなものだったことが見えてきます。
福田半香 ── 見付宿から外へ伸びた人
福田半香は文化元年(一八〇四)、遠江国見付宿に生まれました。見付は東海道の宿場で、生家は脇本陣の隣で旅籠を営み、町役人も務めた家でした。母方は見付の淡海國玉神社の神主家にあたります。宿場の旅籠と町役人、そして神社という、人の出入りと地域の取りまとめの結び目のような場所に、半香は生まれ育ったことになります。なお「福田」は地名ではなく先祖代々の姓で、現在の磐田市福田地区の出身ではありません。姓の「福田」と地名の「福田」が同じ字であるため、後年「福田村の生まれ」という誤った伝えも生まれましたが、ここは区別しておきます。
画の修業は、文化十年(一八一三)ごろから掛川藩御用絵師・村松以弘に学ぶところから始まります。文政七年(一八二四)、二十一歳で江戸に出て匂田台嶺に約一年学び、いったん郷里の見付に戻ります。戻ってからの三年ほどは、家を手伝いながら花鳥や写生を独学した時期で、「毎日鳥を百羽描く」と伝わる写生修行はこのころのものとされます。江戸で型を学び、郷里で自分の眼を鍛え直すという往復が、早くから半香のなかにありました。
転機は天保四年(一八三三)、三十歳ごろの渡辺崋山入門です。以後その教えを受け、やがて崋山の高弟・崋山十哲の一人に数えられるようになります。半香の活動範囲は、ここから一気に外へ伸びていきます。郷里の見付を起点にしながら、江戸の崋山のもとへ通い、三河の田原へも足を運び、掛川や浜松にも門人や画友を持ちました。宿場の人らしく、半香は移動する人であり、各地の文人や豪商・名主とのつながりを束ねていく人でした。
その性格がもっとも表れたのが、天保十年(一八三九)の蛮社の獄のあとの動きです。崋山は田原で蟄居の身となります。半香は天保十一年(一八四〇)、崋山の生計を支えるためにその書画を頒布する書画会、いわゆる半香義会を企画・主催し、同年十月には田原まで崋山を訪ねています。これは崋山の生前の支援活動であって、師の死後に起こされたものではありません。ところがこの活動が田原藩内で問題視され、藩や藩主に累が及ぶことを恐れた崋山は、天保十二年(一八四一)十月十一日に自刃します。よかれと思った支援が師を追い詰めたという結末を、半香は終生悔やみました。崋山は渡辺家の菩提寺・小石川富坂の善雄寺に葬られ、半香もまたのちにそこに葬られています。郷里の見付では、磐田市の大見寺に半香の顕彰碑が残されています。
半香は元治元年(一八六四)、六十一歳で病没するまで、江戸と遠州を往来しながら各地の画人を指導し続けました。見付宿という結び目から外へ外へと線を伸ばし、その線の先々に人と作品を残したのが、福田半香という人の歩みでした。
半香の生涯と門人圏については、本サイトの本編「福田半香とは誰か」で詳しく扱っています。ここでは顕斎との比較に必要な範囲にとどめます。
平井顕斎 ── 遠州南部に根を置き各地を遊歴した人
平井顕斎は享和二年(一八〇二)、遠江国榛原郡青池村、現在の牧之原市域にあたる土地の豪農の子に生まれました。半香より二つ年上にあたります。生地は東海道の宿場ではなく、田畑とともにある在郷の家です。本サイトでは顕斎を、のちに縁を持った豊浜・中野の地名とともに「遠州南部に生きた南画家」として扱っています。宿場に生まれて人の流れの中で育った半香に対し、顕斎は土地に根を張る家の人として出発しました。この出自の差は、のちの移動の形にも影を落とします。
顕斎は十二歳で村松以弘に入門します。福田半香と同門になるのはこの以弘門においてです。二人はここで顔を合わせていた同門の間柄であり、まず師を共有する先輩後輩として出会っています。やがて顕斎は江戸へ向かい、文政十年(一八二七)、江戸で谷文晁に学びます。半香が江戸で匂田台嶺に学んだのとは、師の選び方からして別の筋でした。文晁は当時の南画・洋風表現を広く呑み込んだ大きな存在で、顕斎はその門から出発し、さらに各地を遊歴して画を磨いていきます。家を背負いながらも画業を諦めきれず、一度ならず江戸へ出たところに、顕斎という人の粘りがうかがえます。
顕斎が二度目に江戸へ出たのは天保六年(一八三五)、三十四歳のときでした。このとき顕斎は、先に崋山の門にあった福田半香の紹介によって、渡辺崋山に入門します。同郷・同門の先輩である半香が、後輩の顕斎を崋山のもとへ導いた、という関係がここに成り立ちます。崋山との縁は深まり、天保九年には崋山から『校書図』を贈られています。師から作品を贈られるというのは、ただの門人以上の信頼を示す出来事です。
蛮社の獄ののち、崋山が窮地に陥ったとき、顕斎も動いた一人でした。椿椿山や半香らとともに崋山の救済に関わっています。同じ崋山門の人々が、それぞれの立場でできることをした場面に、顕斎も確かに居合わせていたわけです。崋山の自刃ののちは、顕斎は郷里を拠点としながら東海地方を遊歴し続けました。江戸に常駐するのでも、一つの宿場を結び目にするのでもなく、遠州南部の家を足場に各地をめぐるのが顕斎の流儀でした。
その遊歴のさなか、安政三年(一八五六)、三河の刈谷を訪れていた顕斎は病を発し、岡崎の旅館上野屋で客死します。享年五十六。旅の途上で世を去ったという最期は、生涯にわたって各地を歩き続けた画人の像と重なります。顕斎の歩みは半香の付録ではなく、青池に始まり遠州南部に根を置きながら、東海一円へ遊歴の線を引いた、それ自体で完結した一つの経路でした。
顕斎の生涯のより詳しい流れは、本編「平井顕斎 ── 豊浜・中野に生きた遠州の南画家」と「平井顕斎 略年表」で扱っています。
渡辺崋山との関係をどう分けて読むか
二人を並べて読むうえで、もっとも誤解を生みやすいのが渡辺崋山との関係です。半香も顕斎も崋山の門人であり、崋山の窮地に動いた人々のなかに名を連ねています。それだけを見ると二人は崋山門のなかで横並びのように思えますが、実際には入門の順番にも、崋山の死をめぐる役回りにも、はっきりした違いがありました。ここを丁寧に分けて読むことが、二人を別々の人物として理解する鍵になります。
入門の順番 ── 半香が先輩、顕斎は後輩
渡辺崋山に先に入門したのは半香でした。半香が崋山を訪ねたのは天保四年(一八三三)ごろです。顕斎が崋山の門に入ったのは天保六年(一八三五)で、しかもそれは半香の紹介によるものでした。つまり半香は崋山門における顕斎の先輩であり、後輩を師のもとへ導いた側にあたります。同郷・同門のよしみで先に道をひらいた人が、続く人を引き入れる ── 遠州の画人どうしのつながりが、江戸の崋山門のなかに枝を伸ばしていく様子が、この一件によく表れています。
この順番を取り違えると、二人の関係はゆがんでしまいます。顕斎を「半香とともに崋山に学んだ仲間」と一括りにするだけでは、半香が果たした橋渡しの役割が見えなくなり、逆に顕斎を半香の弟子のように扱えば、二人がそもそも同門の先輩後輩であった事実から離れてしまいます。半香は崋山門では顕斎の先輩、村松以弘門では同門、というように、関係は場面によって層を成しています。
崋山の死をめぐる動き ── 同じ場面、別の立ち位置
天保十年(一八三九)の蛮社の獄で崋山が捕らえられ、田原に蟄居したのち、崋山を支えようとした人々のなかに半香も顕斎もいました。蛮社の獄をめぐる崋山救済の動きには、椿椿山・半香・顕斎らが関わっています。同じ師を救おうとした点で三人は同じ方向を向いていました。
けれども、その中での立ち位置は同じではありませんでした。半香は天保十一年(一八四〇)に崋山の書画を頒布する書画会を主催し、田原まで足を運んでいます。これは崋山の生計をじかに支えようとする、もっとも前面に出た支援でした。そしてこの活動が田原藩内で問題視され、結果として崋山を自刃へ追い詰める一因になったと、半香自身が終生悔やみました。半香にとって崋山との関係は、ひときわ重い、悔いを伴うものとして刻まれます。
顕斎もまた救済の動きに関わっていましたが、半香のように書画会を主導した中心人物として伝えられているわけではありません。崋山から『校書図』を贈られた門人として、また救済に動いた一人として、顕斎は崋山と確かに結ばれていました。同じ崋山門にあって、半香はもっとも前に立って動き深い悔いを背負った人、顕斎は遊歴の画人として師との縁を保ちつつ救済の輪に加わった人、というように、二人の崋山との関係は重なりながらも別の濃淡を持っています。
崋山が「形似」より「伝神」、つまり対象の見た目より精神を写すことを説いた点は、半香・顕斎の両者に影響したと考えられます。ただし、それが二人の画にどう現れたかは、作品ごとに分けて見るべきところで、ひとまとめに語ることはできません。
画友・師友・門人の違い
二人の違いは、誰と画を交わし、誰を育てたかという人の輪にもっともよく表れます。師を共有していても、その後にできた人間関係はそれぞれ別の地理を描いていました。
師の選び方
村松以弘という出発点は共通でも、江戸でついた師は別でした。半香は匂田台嶺に学び、のちに崋山に入門します。顕斎は谷文晁に学び、のちに崋山に入門します。崋山という到達点は同じでも、そこへ至る前段が違うわけです。文晁の門から出た顕斎と、台嶺を経た半香とでは、江戸で吸収した画の幅にも自ずと差があったと考えられます。同門から出発した二人が、江戸で別々の師を選び、最後にまた崋山のもとで合流した ── この分かれてまた重なる動きが、二人の関係の形を端的に示しています。
門人圏の地理
半香の門人や周辺の画人を見ると、その分布は遠州一円に広く及びます。浜松藩勘定方も務めた小栗松靄は浜名郡豊西村恒武の豪家の出で、半香の直接門人の代表格でした。磐田郡井通村西之島の素封家・熊谷青城は、開発名主であり教育者でもあった人物で、やはり半香の直接門人です。掛川の広楽寺住職・武田桜園、浜松連尺町の有力商人で文人サロンの主であった樋口思斎なども、半香に学んだ人々として伝わります。見付・浜松・掛川・恒武・西之島といった地名が、半香を中心にした人の輪のなかに並びます。宿場に生まれた人らしく、半香の輪は地域の名主・豪商・寺院といった結び目を介して広がっていきました。
ここで注意したいのは、半香系の画風が現在の磐田市福田地区に伝わった経路です。福田に半香風を伝えたのは半香本人ではなく、半香の直接門人・小栗松靄に師事した大竹蘆逕という後進でした。半香 ── 松靄 ── 蘆逕という孫弟子の筋を通して福田へ画風が及んだという構図は、半香が福田村の出身だという誤伝を解くうえでも示唆的です。直接門人と孫弟子、画友とパトロンを混同しないことが、半香の輪を正しく読む条件になります。
顕斎の人の輪は、半香のそれとは別の地理を持ちます。顕斎は遠州南部の青池に出自を持ち、のちに豊浜・中野と縁を結びながら、東海地方を遊歴して各地で画を交わしました。半香の輪が浜松・掛川・西之島といった遠州中部から北部にかけて濃いのに対し、顕斎は南部を足場に三河方面までを含む遊歴のなかで関係を結んでいきます。二人の門人・画友の輪は、重なる人もありながら、基本的には別系統として描いたほうが実態に合います。たとえば掛川の武田桜園は半香に学びつつ顕斎とも交わったと伝わり、こうした人物が二つの輪をつなぐ結び目になっていました。
遠州の画人どうしのつながりの全体像は「遠州の文人画ネットワーク」で扱っています。本記事では半香と顕斎の二人を軸に、輪の重なりと違いだけを見ています。
作品を見る視点の違い
作品を前にしたときも、二人を同じ物差しで測らないほうがよく見えます。半香の画は文人画、すなわち南画の系譜にあり、形のそっくりさよりも対象の精神を写すこと ── 崋山のいう伝神 ── を重んじました。緻密な写生を土台にしながら、余白と静けさを生かし、気骨のある水墨山水へと深まっていったのが半香の画風と伝えられます。郷里で「毎日鳥を百羽描く」と伝わる写生修行を積んだ人だけに、緻密な観察と、それを削ぎ落として静けさに変える方向の両方を抱えていました。浅絳山水図や四季の山水図など、年を追って残された作品から、その深化をたどることができます。
顕斎の画を見る視点は、半香のそれとそのまま重ねるべきではありません。顕斎は谷文晁の門から出発し、のちに崋山に学び、生涯を遊歴に費やした画人です。文晁門で身につけた広い表現と、崋山門で受けた伝神の考え方、そして各地を歩いて見た風景とが、顕斎の画のなかで混じり合っていたと考えられます。半香を基準にして顕斎を「半香に似ている/似ていない」と測るより、文晁から崋山へ、そして遊歴へという顕斎自身の経路に沿って作品を見るほうが、その特質に近づけます。
もう一つ、作品の伝来という見方も二人を分けて考えさせます。半香の場合は、後世にその書画の模作が多く作られ、真贋の判定を難しくした事情がありました。半香・崋山の書画を多く模した足立雪山のような後進がいたことも伝わります。誰の手を経て作品が残り、どこで模作が混じったかという来歴の問題は、半香の作品を見るうえで避けて通れません。顕斎の作品についても、遊歴の画人ゆえに各地に分散して残されたと考えられ、半香とは別の意味で来歴を一つ一つたどる必要があります。作品をどう見るかは、その画人がどう生き、どう作品を残したかと切り離せないのです。
具体的な作品の年や所在については、資料からは確認しきれない部分も多く残ります。本記事では二人の画を見る「視点の違い」までを示し、個々の作品の断定は控えます。
遠州の南画は一つの型ではない
ここまで二人を並べて読んできました。福田半香と平井顕斎は、同じ遠江に生まれ、同じ村松以弘に学び、最後には同じ渡辺崋山の門に入りました。共通点だけを並べれば、二人は一本の系図に収まりそうに見えます。けれども実際には、生地は宿場と在郷で違い、江戸で選んだ師も台嶺と文晁で違い、崋山門に入った順番には先輩後輩の差があり、崋山の死をめぐる立ち位置も、その後に築いた人の輪も、それぞれ別の地理を描いていました。
半香は見付宿という人の流れの結び目から、江戸・田原・掛川・浜松へと線を伸ばし、地域の名主や豪商や寺院を介して輪を広げた人でした。顕斎は遠州南部の青池に根を置き、二度江戸へ出ては各地を遊歴し、旅の途上で世を去った人でした。一方は結び目から外へ伸びる形、もう一方は足場を持ちながらめぐり歩く形 ── 同じ南画を描きながら、二人の生き方の形そのものが違っていたのです。
このことが教えてくれるのは、遠州の南画が一人の大家から枝分かれした単一の型ではなかった、ということです。半香の筋、顕斎の筋、谷文晁から来た流れ、崋山から受けた伝神の考え、そして地域の名主・豪商・寺院が支えた文化の土台 ── これらが交差して、遠州の南画はいくつもの筋を持つ網のようなものになっていました。半香を主役に置いて顕斎をその影として読むのでも、その逆でもなく、二人を別々の経路として描いてから重ね合わせること。そうして初めて、遠州の南画の厚みが見えてきます。一つの型ではなかった、という当たり前のことを確かめるために、二人を並べて読む意味があります。
顕斎という画人の輪郭を、半香の付録としてではなくそれ自体としてたどるには、本編「平井顕斎 ── 豊浜・中野に生きた遠州の南画家」を続けてお読みください。
参考資料
- 『遠州画人伝 平井顕斎』
- 『遠州画人伝 福田半香』
- 平井顕斎(ウィキペディア日本語版)
- 福田半香(ウィキペディア日本語版)
- 田原市博物館「渡辺崋山の弟子 福田半香」関連資料
- 磐田市(大見寺 福田半香顕彰碑ほか)、淡海國玉神社