旧赤松家と、
海をわたった見付の人
見付宿の北側、河原町のあたりを歩くと、ふいに赤レンガの構えが目に入る。明治の洋風建築を思わせる、堂々とした門と塀。その奥に、土蔵や庭園がひろがっている。これが旧赤松家、今は記念館として公開されている場所である。旧見付学校の白い校舎とはまた違った、重厚な明治の空気が、ここには流れている。
赤レンガの門が残るまち
旧赤松家でまず目をひくのは、なんといっても赤レンガの門・塀・土蔵である。明治二十年代に建てられたこれらの建物は、明治建築の特徴をよく今に伝えており、近代建築としての価値が高い。県と市の指定文化財になっている。レンガ造りの門をくぐると、よく手入れされた庭園があり、その奥に記念館が建つ。木造の旧見付学校とはまた違う、レンガと洋風意匠の取り合わせが、文明開化の時代の気分を感じさせる。
この邸を築いたのが、赤松則良という人物である。海軍中将、そして男爵。近代日本の造船技術の先駆者として知られる。だが、この人の名は、磐田の人にもそれほど広くは知られていないかもしれない。けれど、その生涯をたどると、幕末から明治へという、日本がもっとも大きく変わった時代の、まさにど真ん中を生きた人だったことがわかる。
咸臨丸で、太平洋をわたる
赤松則良が歴史の表舞台に現れるのは、幕末のことである。安政の末、日本はアメリカと結んだ修好通商条約の批准書を交換するため、使節を派遣することになった。その随行艦として、太平洋をわたったのが、あの有名な咸臨丸である。勝海舟や福澤諭吉が乗っていたことで知られるこの船に、則良も乗り組んでいた。ときに、わずか十九歳だったという。
サンフランシスコへの航海は、嵐にもまれる、命がけの旅だった。当時の日本人にとって、太平洋をわたって異国へ行くなど、想像を絶することである。その船に、二十歳にも満たない青年が乗っていた。則良が、いかに早くから将来を嘱望された俊英だったかが、うかがえる。さらに彼は、帰国後ふたたび海をわたり、オランダへ留学する。そこで、近代海軍の要である造船の技術を、本格的に学んだのである。
幕末という時代は、こうした若者たちの好奇心と気概によって、動いていった。古い体制が崩れ、新しい国の形を、誰も知らないまま手探りでつくっていく。その最前線に、海の向こうの技術を持ち帰る役目を担った青年たちがいた。赤松則良も、その一人だったのである。
近代日本の海軍を、つくる
明治の世になると、則良は新政府のもとで、その学びを存分に発揮する。日本がこれから近代国家として立っていくには、強い海軍が要る。そして海軍には、軍艦を自分たちでつくり、修理し、維持する技術が欠かせない。則良は、その造船技術の先駆者として活躍した。横須賀をはじめとする造船の現場で、彼の学んだ知識が活かされていったのである。やがて海軍中将にのぼり、男爵の位も授けられた。
世界を見て、最先端の技術を持ち帰り、近代国家の屋台骨づくりに身を投じる――。則良の生涯は、激動の時代を、まさに駆けぬけたものだった。咸臨丸の青年は、日本の海軍を支える重鎮へと成長していったのである。
世界を見た人が、見付を選ぶ
そして、ここからが、磐田にとって大切なところである。これだけの経歴をもつ人物が、公職を退いたあと、晩年を過ごす地として選んだのが、見付だった。明治二十五年(1892年)に予備役となった則良は、翌年、本籍を見付に移し、この邸を築いた。世界をその目で見た人が、最後に腰を落ちつけたのが、東海道の宿場町・見付だったのである。
なぜ見付だったのか。則良は、この邸を構えるとともに、磐田原台地に茶園を開拓したと伝えられる。海軍の重鎮が、晩年には茶づくりに取り組んだ。激しく動いた前半生のあとに、この土地の静けさと、土に向き合う暮らしを求めたのかもしれない。世界を駆けた人が、遠江の落ちついたまちで余生を送る。その選択そのものが、見付という土地のもつ、ある種の懐の深さを物語っているように思う。
則良が開いた茶園は、その後の磐田原のお茶づくりにもつながっていく。一人の人物の晩年の営みが、土地の産業の歴史に、そっと根を残している。旧赤松家は、ただ一人の偉人の邸宅というだけでなく、その人を受け入れ、その営みを育てた、まちの記憶の場でもあるのだ。
次の世代へ、手渡したいもの
旧赤松家は、ただの古い洋館なのではない。ここは、幕末に世界へ飛び出し、近代日本の海軍を築いた一人の人物が、最後に選んだ場所である。赤レンガの門の向こうには、太平洋をわたった青年の物語と、晩年に土と向き合った穏やかな日々とが、ともに息づいている。
歴史というと、教科書に載る大きな出来事ばかりに目がいく。けれど、その大きな歴史をつくった人が、たしかにこの見付に暮らし、ここで人生を閉じた。咸臨丸という日本史の一場面と、見付という足もとの土地とが、赤松則良という一人の人物を通じて、つながっている。そのことに気づくと、まちの見え方が少し変わる。
赤レンガの門の前を通るとき、隣にいる人に伝えてみる。「ここに住んでいた人はね、昔、咸臨丸っていう船で、アメリカまで行ったんだよ」と。何気ない明治の洋館が、急に、大きな海と時代につながった場所に見えてくる。次の世代へ残したいのは、そういう「足もとと世界がつながっている」という感覚なのだと思う。
主な参考
- 磐田市公式ウェブサイト「施設ガイド 旧赤松家記念館」
- 磐田お宝見聞帳「旧赤松家」/磐田市観光協会「旧赤松家記念館」
- ハローナビしずおか・各種地域資料(赤松則良の経歴と建物の文化財指定について)