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磐田物語遠州国分寺特集伽藍を読む / 七重塔
伽藍 | 塔

七重塔とは何か

七重塔(しちじゅうのとう)は、仏の遺骨である舎利(しゃり)をまつるための、七つの屋根を重ねた高い建物です。国分寺の塔は、ただ大きいだけではなく、遠くからも見える国家の祈りの象徴でした。
この孫ページでは、塔の意味と仏舎利信仰、国分寺における象徴性、そして遠州国分寺の塔について確かめられていることと、復元案として推定されていることを分けて読み解きます。

このページの内容

  1. 七重塔とは ── 仏舎利をまつる塔
  2. 国分寺における塔の象徴性
  3. 古代の磐田にそびえた塔の意味
  4. 失われた七重塔 ── 火災と発掘
  5. 復元案として語られる高さ

1七重塔とは ── 仏舎利をまつる塔

塔は、もともとインドのストゥーパ(仏舎利をおさめた塚)に由来する建物です。仏舎利とは釈迦の遺骨を指し、それをまつる塔は、仏そのものを象徴する神聖な対象とされてきました。塔を建て、舎利を納めることは、仏への深い信仰のあらわれであり、これを仏舎利信仰といいます。

日本では、塔は木造の楼閣として発展し、三重塔・五重塔・七重塔と、屋根を重ねた層の数で呼び分けられます。層が多いほど高くなり、建てるための技術も労力も大きくなります。七重塔は、そのなかでもとりわけ規模の大きい塔であり、国家的な寺院でなければ建てられないものでした。

2国分寺における塔の象徴性

聖武天皇の「国分寺建立の詔」は、各国の国分寺に七重塔を建て、そこに金字の金光明最勝王経を納めるよう求めていました。つまり七重塔は、国分寺という制度のなかで定められた、いわば国家の祈りの中心装置だったのです。塔は金堂とならんで、伽藍のなかでもっとも象徴的な建物でした。

金堂が仏像を安置して人々の祈りを受けとめる場であるのに対し、塔は仏そのものを象徴して天へとそびえます。地に祈りを集める金堂と、天を指し示す塔。この二つがそろうことで、国分寺の伽藍は完成したといえるでしょう。

3古代の磐田にそびえた塔の意味

遠州国分寺の七重塔は、伽藍を囲む回廊の西外側に建っていたと考えられています。台地の上にそびえる高い塔は、周囲の平野や、かつて南に広がっていた「大之浦」の水辺からも望むことができたでしょう。塔は、遠くから見える景観としてのしるしでもありました。

道を行く旅人が、はるか彼方に塔のかげを認めれば、そこに遠江国の中心があると知ることができます。巨大な塔がそびえているという事実そのものが、国家の力と仏の威光を、文字を読めない人々にも伝える役割を果たしていました。古代の磐田にこれほどの塔が立っていたことは、この地が遠江国のはじまりの地であったことの、たしかな証しなのです。

基壇(跡・心礎を確認=事実) 相輪 推定全高 約66.5m (大林組1980の復元案) 七つの屋根を重ねた塔(層数は七重・形は概略)
遠州国分寺の七重塔のシルエット模式図。基壇跡・心礎が発掘で確認されたことは事実ですが、七つの屋根を重ねた姿・各層の比率・相輪の形、および高さ約66.5メートルは大林組(1980)の復元案にもとづく推定です。市は塔の高さを断定していません(WEB説明用の模式図。実測図ではありません)。

4失われた七重塔 ── 火災と発掘

遠州国分寺の七重塔は、永くこの地にそびえていたわけではありません。事実平安時代のはじめ、弘仁10年(819年)に火災があったことが歴史書『類聚国史(るいじゅうこくし)』に記されており、塔はこの火災で失われたと伝えられています。木造で高くそびえる塔は、落雷や火に弱く、各地の国分寺塔もしばしば焼失しました。

けれども、塔が立っていたという事実は、地中にしるしを残していました。事実昭和26年(1951年)にはじまる発掘調査によって、塔の基壇跡と、塔の中心の柱を据えた心礎(しんそ)が確認されています。心礎は、塔がたしかにここに存在したことを千年あまり越えて伝える、何よりの証拠です。

5復元案として語られる高さ

では、その塔はどれほどの高さだったのでしょうか。推定・復元案大林組が1980年に発表した復元構想では、基壇は一辺15.4メートル四方、最下層の一辺は9.5メートル、心礎の径は1.7メートル、そして推定の全高は約66.5メートルとされています。これはあくまでひとつの復元案であり、発掘で確かめられた基壇や心礎の大きさをもとに、当時の塔の比率などから導かれた数値です。

磐田市の公式な説明は、塔の高さを断定していません。「66メートル前後とする復元案もある」という受けとめが、いまのところ正確でしょう。それでも、これだけの規模が推定されること自体が、遠州国分寺の塔がいかに巨大なものだったかを物語っています。次は、塔とは別の役割をもった建物――僧侶が学ぶ講堂を読み解きます。

参考文献・参考資料

本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものです。本文・写真・図面の転載は行っていません。掲載図版は、WEB説明用として新規に作成した模式図であり、実測図ではありません。塔の高さ66.5メートル等の数値は、大林組(1980)の復元構想にもとづく推定であり、市は塔高を断定していません。事実と推定・復元案は本文中で区別しています。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。