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磐田物語中泉地区 / 中泉の生い立ち
中泉地区 | 地名・古代磐田・御殿・駅前

中泉の生い立ち
── 国府・御殿・駅前の中心地

中泉は、ただ「磐田駅前のまち」になった場所ではない。古代には遠江国府・国分寺の周辺として、近世には中泉御殿・中泉代官所の拠点として、近代には中泉駅から磐田駅前へ続く商業地として、何度も中心性を帯びてきた地域である。
この記事の方針。中泉の語源を一つに断定せず、確認できる史実、地域で語られる伝承、地形や周辺資料から考えられる推定を分けて整理する。
中泉を形づくった三つの中心性古代遠江国府・遠江国分寺広域の政治・宗教の中心地帯近世中泉御殿・中泉代官所徳川家康の滞在と幕府領支配の拠点近代中泉駅から磐田駅前へ鉄道・学校・商店街が集まる中心市街地
中泉の中心性は、古代・近世・近代の三層が重なって生まれた。図は実測地図ではなく、歴史的役割を整理するための概念図である。

中泉は、なぜ中心地になったのか

中泉の中心性は、一つの時代だけで説明できない。古代の遠江国府・国分寺周辺、近世の御殿・代官所、近代の鉄道駅前という三つの層が重なって、現在の磐田中心部に近い位置づけが生まれた。

したがって、中泉を「昔からずっと同じ中心」と単純化するのではなく、時代ごとに役割を変えながら中心性を持ち続けた場所として読む必要がある。

古代の中心──遠江国府と国分寺

磐田市公式資料では、奈良時代に遠江国府と遠江国分寺が置かれ、現在の磐田中心部が古代遠江の政治・宗教の重要地域であったことが確認できる。遠江国分寺は、大之浦に臨む台地上に建立されたと説明され、金堂・七重塔・講堂などを備える大きな伽藍を持っていた。

中泉そのものを古代国府の所在地と断定するのではなく、国府・国分寺・府八幡宮を含む広域の中心地帯のなかで、中泉の位置を考えるのが適切である。

「中泉」という地名の初見

磐田市立図書館の公開資料では、「中泉」という地名が建武元年(1334)の文書に初めて現れるとされる。地名の語源を「中央の泉」と断定する説明は避けたい。中世資料に現れる地名であることと、水に関わる伝承があることは、分けて扱うべきだからである。

確認できること
建武元年(1334)の文書に「中泉」の地名が現れるとされること。
伝承として扱うこと
徳川家康が水を気に入った、泉に由来する、といった説明。
推定として扱うこと
中市場村、市場性、交通・商業の結節性との関係。

中泉御殿と中泉代官所

近世初期、中泉には徳川家康の宿泊・滞在施設である中泉御殿が置かれた。中泉御殿は、東海道や浜松・駿府方面を結ぶ移動のなかで、家康の行動を支える拠点だった。その後の中泉代官所は、幕府領支配の行政拠点として機能する。

御殿と代官所は混同しない。御殿は将軍・大名級の宿泊施設、代官所は幕府領を管理する役所として整理すると、中泉の近世的な役割が見えやすくなる。

中泉駅から磐田駅へ

明治22年(1889)、中泉駅が開業する。現在の磐田駅は中泉633-1に所在し、JR東海道本線の駅として市街地の交通結節点になっている。駅名はのちに磐田駅へ変わるが、「駅前の土地」としての中泉の重要性は、地名が表から退いた後も続いている。

磐田市立図書館の「なかいずみ学府」では、磐田駅北口の通りに商店が連なり、昭和30年代から50年代には映画館もあったこと、平成初期から駅南北の整備が進み、2016年に大クスを中心とした駅前広場ができたことが紹介されている。つまり中泉は、近世の行政拠点から近代の交通拠点へ、さらに現代の駅前都市空間へと役割を変えてきた。

「中市場村」という記憶

中泉を考えるうえで見落とせないのが、室町時代以前には「中市場村」と呼ばれていたとする地域資料の記述である。これは「中泉」の語源を直接説明するものではないが、物資や人が集まる市場性をもつ場所として、この地域を読む手がかりになる。

市場は、単に売買の場ではない。街道、寺社、役所、河川・低地の生産地が接する場所に生まれやすい。中泉の場合、遠江国府・国分寺に近い古代の中心性、東海道と見付宿に近い交通上の位置、近世の御殿・代官所、近代の駅前という要素が重なり、「集まる場所」としての性格が長く持続したと考えられる。

府八幡宮・善導寺大クス・土器塚古墳

中泉の歴史は、御殿や駅だけでは完結しない。磐田市の文化財資料では、府八幡宮楼門が県指定文化財として中泉に所在し、府八幡宮本殿・拝殿付弊殿、府八幡宮中門、府八幡宮の神像・随身像なども市指定文化財として整理されている。府八幡宮は国府の守護神として語られる由緒をもち、古代国府の記憶と近世建築の層をつなぐ存在である。

また、善導寺大クスは県指定天然記念物として中泉に所在し、土器塚古墳も県指定史跡として中泉にある。これらは、中泉が「駅前」になる以前から、人の営み、信仰、墓制、町場の記憶が積み重なっていたことを示す。中泉を読むには、行政史だけでなく、文化財の分布をあわせて見る必要がある。

中泉御殿の「門」が語ること

中泉御殿は建物そのものがそのまま残っているわけではない。しかし、磐田市の市指定文化財には「旧中泉御殿裏門」があり、徳川家康が造営した館に使われた薬医門と説明されている。また西光寺表門は、中泉御殿の表門を移築したと伝えられる市内最大級の薬医門である。

ここで注意したいのは、「移築された門」や「伝えられる門」は、御殿跡そのものと同一ではないという点である。けれども、失われた御殿の記憶を物質的に伝える手がかりであることは確かである。建物の全体像が失われても、門や地名、寺社への移築伝承をつなぐことで、近世中泉の政治的な厚みが見えてくる。

代官所から中泉奉行所へ

中泉代官所は、江戸時代を通じて遠江・三河の幕府直轄領を支配する拠点であったとされる。市指定文化財の「旧中泉代官所門」は、幕末に再建された中泉陣屋(代官所)の表門を移築したものと説明されている。代官所は、租税、治水、訴訟、村方支配などを扱う行政機関であり、中泉の「中心性」は商業だけでなく行政権力の配置によっても支えられていた。

明治になると、代官所は静岡藩の中泉奉行所へと役割を変える。前島密が中泉で仮学校や救院に関わったという記憶は、幕府支配の拠点だった場所が、近代の教育・福祉・地域運営へ移っていく転換点として読める。

学校のまちとしての中泉

磐田市立図書館資料では、磐田中部小学校と磐田西小学校の前身が、明治初期の中泉学校に連なることが紹介されている。中泉奉行所の前島密が西願寺につくった仮学校、士族移住と子どもたちの教育、中泉学校の展開は、近世の行政拠点が近代教育の場へ変化する過程を示している。

この視点を入れると、中泉の近代化は「駅ができたから栄えた」という単線的な説明では足りない。駅前商業、学校、公共施設、町場の住宅が同時に重なり、中心市街地としての厚みを形成したのである。

三層構造ではなく、重なり続ける中心性

本稿では説明の便宜上、古代・近世・近代の三層で整理した。しかし実際の中泉は、三つの時代がきれいに置き換わったのではない。古代の国府・国分寺の記憶は府八幡宮や国府台に残り、近世の御殿・代官所の記憶は門や地名に残り、近代の駅前の記憶はジュビロードや駅前広場に残る。

中泉の特徴は、「中心が移動した」ことよりも、「中心性の理由が変わりながら蓄積した」ことにある。国府の中心、幕府支配の中心、鉄道駅前の中心、学校区の中心が重なったため、中泉は現在も磐田の中心部を考えるうえで欠かせない地名であり続けている。

史実・伝承・推定の整理

区分内容この記事での扱い
史実奈良時代に遠江国府・遠江国分寺が置かれたこと、遠江国分寺跡が特別史跡であること、府八幡宮楼門・善導寺大クス・土器塚古墳などが中泉所在の文化財として整理されていること、現在の磐田駅が中泉に所在すること。公的資料・文化財資料・JR東海公開情報を軸に記述する。
資料に基づく地域史「中泉」の地名が1334年の文書に初めて見えるとされること、室町以前に中市場村と呼ばれたとする説明、中泉御殿・中泉代官所・中泉奉行所の流れ。図書館資料・地域資料の記述として扱い、出典以上に断定しない。
伝承水に関わる地名由来、徳川家康が飲料水を気に入ったという話、御殿門移築に関わる伝承。「伝えられる」と表現し、史実と混同しない。
推定中市場村の名から、市場性・交通性・行政性が中泉の中心性を支えたと読むこと。地名・周辺史・文化財分布からの考察として提示する。

参考資料・作成方針

本記事は、資料の丸写しではなく、確認できる史実、地域で語られる伝承、筆者による推定を区別しながら再構成している。地名由来については、根拠の薄い「中央の泉」説を断定せず、中心性の蓄積として中泉を読む方針をとった。

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