失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
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特集|磐田用水

磐田用水の歩み天竜川の水が変えた農地と暮らし

磐田用水は、一本の水路名だけではなく、天竜川の水をどう受け、どう分け、どう守ってきたかという地域の共同作業の記録である。農地、集落、産業、暮らしの形は、水を得ることによって大きく変わった。
本稿は資料の全文転載ではなく、確認できる記述をもとに、磐田用水の歴史を読みやすい地域史コンテンツとして再構成したものである。年代・固有名は資料に基づく範囲で示し、推定を含む箇所はその旨を明記する。
磐田用水の歩みの流れ天竜川1社山疏水2幹線水路3分水・水田4土地改良区5
本文理解のために、取水・導水・改良・管理の関係を模式化した図。正確な水路位置を示す地図ではない。

読む順番

  1. 磐田の歴史は「水との闘い」でもあった
  2. 磐田用水とは何か
  3. 天竜川から社山疏水へ
  4. 用水が変えた農地・集落・暮らし
  5. このシリーズの読み方

磐田の歴史は「水との闘い」でもあった

磐田原台地の周辺には、天竜川の豊かな水が流れている。しかし、水が近くにあることと、農地へ安定して水を届けられることは同じではない。川の水位、取水口、導水路、分水の順序、維持管理の費用と労力がそろって初めて、田は田として成り立つ。

磐田用水の歩みは、単に施設を造った歴史ではない。水不足に悩む地域が、取水・導水・分配・補修を繰り返しながら、暮らしの基盤を作ってきた歴史である。

磐田用水とは何か

磐田用水は、天竜川の水を農業用水として受け入れ、磐田市域の水田や農地へ届ける水利のまとまりとして理解できる。そこには社山疏水、幹線水路の改良、船明ダム以後の取水安定化、東部土地改良区による管理といった複数の段階が重なる。

名称だけを見ると一つの事業に見えるが、実際には時代ごとに課題が変わる。明治期の疏水開削、昭和期の幹線改良、戦時下・戦後の工事、近代的な土地改良区の管理は、それぞれ異なる目的と制約の中で進められた。

天竜川から社山疏水へ

シリーズの出発点は、天竜川の水を地域へ引く構想である。社山疏水の構想は、明治期の水利計画として重要で、犬塚祐一郎らの尽力と地域有志の議論を通じて進められた。

疏水は、水を通すだけでなく、地域を結ぶ制度でもある。誰が費用を負担するのか、どこを通すのか、どの村がどれだけ水を得るのか。こうした調整がなければ、水路は地図上の線にとどまる。

用水が変えた農地・集落・暮らし

水が安定すると、農地の使い方は変わる。水田の維持、二毛作の可能性、農作業の時期、集落の共同作業、用水路沿いの景観が変化する。磐田用水は、農業だけでなく、地域の時間割そのものに関わった。

一方で、水路は完成して終わりではない。土砂、漏水、堰、分水、干ばつ、豪雨への対応が続く。水を得ることは、維持管理の責任を引き受けることでもあった。

このシリーズの読み方

本シリーズは、総論ページで全体像を示し、続く4本で社山疏水、幹線改良、天竜川下流農業水利事業、東部土地改良区と年表・管理の流れを扱う。

個別ページは独立して読めるが、総論から順に読むと、取水、導水、改良、管理という流れがつかみやすい。磐田市の歴史、磐田市の農業、水利事業、土地改良区をつなげて読む入口として位置づける。

追加調査で確認した全体像

手元資料『磐田用水の歩み』を確認すると、磐田用水は「社山疏水の構想」「昭和期の幹線改良」「天竜川下流農業水利事業」「東部土地改良区による管理」という四段階で読むと理解しやすい。最初の構想は天保2年(1831)ごろに犬塚祐一郎が抱いた社山疏水計画にさかのぼり、明治期の準備、昭和期の水利改良、戦後の広域農業水利事業へ接続していく。

この流れの中心にあるのは、天竜川そのものではなく、天竜川の水をどの地点で取り、どの水路へ送り、どの地域へ分け、誰が維持するかという制度の歴史である。水は自然に田へ届くのではない。取水口、隧道、幹線、分水工、支線、排水路、水管理施設、土地改良区の負担と合意が重なって、はじめて地域の用水になる。

年代で見る磐田用水

年代確認できる動き意味
天保2年(1831)ごろ犬塚祐一郎が社山疏水計画を構想したとされる。天竜川の水を磐田原台地へ導く発想の出発点。
明治16年(1883)ごろ犬塚祐一郎の構想から約50年後、実現へ向けた準備が進む。構想が個人の願いから地域の運動へ移る。
昭和4年(1929)磐田用水幹線改良事業計画が県議会で採択。近代的な幹線改良へ進む制度上の節目。
昭和19年(1944)7月25日午前10時に通水したと記録される。戦時下の突貫工事を経た大きな到達点。
昭和25年(1950)11月27日磐田用水東部土地改良区が認可。用水を管理する組織が近代的な制度へ移行。
平成5年度国・県補助により水管理システムを導入。広い用水区域を遠隔・集中管理する段階へ進む。

参考資料の位置づけ

主資料は、磐田用水東部土地改良区の設立50周年記念誌『磐田用水の歩み』である。これは顕彰的な性格を持つ資料でもあるため、本文では人物の功績をそのまま称えるだけでなく、構想、事業費、受益面積、通水、管理組織という確認可能な項目に分けて読んだ。

また、水利史では「誰が偉かったか」だけでなく、どの土地が水を必要とし、どの施設が水を動かし、どの組織が費用と維持を担ったかが重要になる。したがって本シリーズでは、人物史、農業史、土木史、制度史を切り分けながら、磐田市の農業と暮らしの基盤として用水を読む。

なぜ向陽・御厨・福田の記事として読むのか

磐田用水は広域の水利だが、本サイトの地域分類では向陽・御厨・福田に置いた。社山疏水の構想は社山・向笠・岩田方面の地形を起点にし、幹線改良では寺谷用水や社山幹線が御厨・東部地域へ水を送る骨格をつくり、さらに福田方面へ分水していく流れが重要だからである。

この分類は、行政区域の線引きというより、水がどこから入り、どの農地へ届き、どの地域が維持管理に関わったかという読み方である。向陽は取水・台地・社山の記憶、御厨は東部地域へ入る幹線の受け皿、福田は下流側の水田と分水の行き先として、それぞれ磐田用水の理解に欠かせない。

用語を整理する

用語このシリーズでの意味
疏水水を引くために掘削・開削された水路。社山疏水は天竜川の水を磐田原台地へ導く構想として語られる。
幹線水を広域へ運ぶ主要水路。末端の田へ直接入る支線とは役割が違う。
分水幹線から地域別・系統別に水を分けること。水利では公平性と優先順位が問題になる。
土地改良区水路・農地・排水施設などを維持管理する組織。用水を日常的に使える状態へ保つ制度的な担い手。
水管理システム平成5年度に導入されたとされる、広い用水区域の状況を把握しやすくする管理設備。

整理表

水源天竜川の水をどう取り入れたか
水路社山疏水から幹線水路へどう整備されたか
農地水不足・排水・分水が農業をどう変えたか
管理水利組合から土地改良区へ維持の仕組みがどう整ったか

参考資料・注記

  • 磐田用水のあゆみ(磐田用水東部土地改良区設立50周年記念誌)
  • 磐田市史・旧町村史などの地域史資料
  • 本ページの図表は、資料理解のために作成した独自の模式図・要約表であり、原資料画像の転載ではない。