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磐田物語向陽地区 / 匂坂城と匂坂氏

向陽地区の記憶 | 中世の武勲と砦

匂坂城跡と匂坂氏
── 遠州の戦乱を生き抜いた在地武士

難読地名「匂坂(さぎさか)」のルーツとも言える、中世この地を領した「匂坂氏」と、その本拠地と伝えられる「匂坂城跡」。事実として、彼らは室町時代から戦国時代にかけて、東海道の交通や地勢を抑える重要な存在でした。今川氏、武田氏、徳川氏という超大国のはざまで、生き残りをかけて戦い抜いた在地武士の歴史と、台地のへりという地形的優位性を活かした城館の謎を解き明かします。

この記事の要点

匂坂氏の出自と磐田

匂坂氏さぎさかし

中世遠江国の武士。匂坂(現在の磐田市匂坂上・中・新付近)を本拠地とし、地名を名字とした。今川氏の客将・直臣として重きをなし、戦国期には徳川氏に転じて各地で奮戦した。

中世の日本において、武士の多くは自らが支配し根を張った土地の名前を名字(氏)とした。匂坂氏もその典型であり、現在の磐田市匂坂周辺を切り開き、自らの本拠とした在地領主である。事実として、南北朝時代以降の史料に「匂坂」の名を持つ武士がたびたび登場し、地域の有力者として台頭していたことが確認されている。

室町時代から戦国時代初期にかけて、匂坂氏は駿河・遠江を支配した今川氏の配下となった。今川氏の軍事行動において、匂坂一族は強力な戦闘集団としてたびたび従軍し、その忠誠を示した。解釈になるが、台地の上の平原と天竜川に近い水域、そして東海道の北を抑える位置にある匂坂という土地は、軍事的・経済的に重要な拠点であり、今川氏としても匂坂氏の力を重視せざるを得なかったと考えられる。

今川から徳川へ ── 生き残りの決断

1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、遠江の在地武士たちは大混乱に陥った。西から侵攻する徳川家康と、北から狙う武田信玄、そして衰退する今川氏本家との間で、生き残りをかけた激しい選択を迫られたのである。

匂坂氏は最終的に徳川家康への臣従を選んだ。事実として、彼らは徳川軍の先鋒や重要な局面での守備を任され、その期待に十二分に応えた。特に有名なのが、1570年の姉川の戦い(滋賀県)である。匂坂三兄弟(吉政・吉長など)は織田・徳川連合軍の一員として朝倉軍と戦い、敵の勇将を討ち取るなど目覚ましい活躍を見せ、家康から直接感状(感謝状)を授与された。この武勲は徳川家の記録『徳川実紀』等にも誇らしく記されている。

匂坂城の謎 ── 地形と遺構

匂坂氏の本拠である「匂坂城」はどのような城だったのか。これは推測の域を出ないが、室町・戦国期の典型的な「台地端型の城館(館)」であったと考えられている。すなわち、磐田原台地東縁の切り立った崖(崖線)を背後の防御とし、台地側に堀や土塁を築くことで、最小限の工事で高い防御力を得る構造である。

しかし、匂坂城の正確な位置や規模については、現在のところ諸説あり確定的な比定ができていない。一般的には匂坂上の高台や寺院の周辺が候補地とされているが、長年の農地耕作や住宅開発によって、当時の土塁や堀といった目立つ遺構の多くは消失している。文献には「匂坂城」の名が残るものの、その実態の解明は、今後の発掘調査や古文書の発見に委ねられているのが現状である。

今川、徳川、武田の三つ巴の嵐が吹き荒れた遠江。崖のへりに立つ匂坂城から、武士たちは風雲急を告げる東海道の空をどのような思いで見つめていたのだろうか。

よくある質問

Q匂坂氏はその後どうなったのですか。

徳川家の直参旗本などとして血脈を残しました。武田氏との激しい戦いを経て、徳川家が天下を統一すると、匂坂氏の一部は江戸幕府の旗本(将軍直属の武士)として召し抱えられました。また、分家や一族の者は各地の大名に仕え、その武勇の伝統を江戸時代以降にも引き継ぎました。

Q匂坂城跡の石碑などはありますか。

匂坂上地区に城址を示す標柱や伝承地があります。城郭としての壮大な石垣などはありませんが、台地東縁の城跡と推定される高台には歴史を伝える標柱や説明があり、周辺の起伏ある地形から、中世山城の雰囲気を味わうことができます。

主な参考資料

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