遠江・見付のまちの歴史と文化
磐田物語まちの成り立ち / 「貝塚」という地名【解説】

連載 まちの成り立ち 第四回 | 旧磐田市の記憶

「貝塚」という地名
── 西貝塚・東貝塚と消えた海岸線

磐田市には「西貝塚」「東貝塚」という、海から数キロも離れた内陸の地名がある。なぜ海辺でもない土地に「貝塚」の名が残るのか。本記事では、縄文時代の海(縄文海進)と磐田原台地の地形史を手がかりに、貝塚という地名の由来を解説する。あわせて、これらの村が明治・昭和の合併でどう再編されたかも整理する。

磐田原台地 縄文の海(内湾) 貝塚 縄文のムラ 海はやがて退いた 台地のへりに、貝の記憶が残る
図:縄文時代、海は今より内陸まで入り込んでいた。台地のへりに暮らした人びとが捨てた貝殻の層(貝塚)が、のちの地名にも影を落とす(概念図。海岸線の位置は推測を含む)。

この記事の要点

海辺でないのに「貝塚」── まず謎を確認する

磐田市の住所のなかには、「西貝塚(にしかいづか)」「東貝塚(ひがしかいづか)」という地名がある。どちらも天竜川の河口から数キロ以上内陸に位置し、いま海岸線は見えない。にもかかわらず、地名には「貝塚」とある。

貝塚とは、本来、貝を食べた人びとが殻を捨てた場所――つまり海の幸が手に入る環境を前提とする。事実として、現在の磐田市街地は海から離れた内陸である。ここに「貝塚」の名が残ること自体が、ひとつの問いになる。

この問いを解く鍵が、はるか昔の海の高さと、磐田原台地という地形にある。本記事では、その二つを軸に「貝塚」という地名を読み解いていく。

貝塚かいづか

縄文時代などに人びとが食べた貝の殻を、長い年月のあいだ一定の場所に捨て続けてできた層・遺構。貝殻のほか、獣骨・魚骨・土器片・人骨などを含むこともあり、当時の食生活や環境を知る重要な手がかりとなる。考古学では遺跡の一種として扱われる。

縄文海進 ── かつて海は内陸まで来ていた

「貝塚」が内陸にある理由を説明する第一の鍵は、縄文海進(じょうもんかいしん)である。

縄文海進じょうもんかいしん

縄文時代の前期、いまからおおよそ6千年前を中心とする時期に、地球の温暖化で海面が現在より数メートル高かった現象。日本各地で海が内陸の奥深くまで入り込んだ。関東平野の奥に貝塚が点在するのもこの海進のためで、全国的に確認される。

事実として、縄文海進の時期には、平野や谷の低い部分に海水が入り込み、現在より内陸まで海や潟(かた)が広がっていた。海と陸の境目――つまり当時の海岸線――に立った人びとは、そこで貝を採り、食べ、殻を捨てた。その捨て場が、のちに貝塚として残る。

解釈になるが、磐田原台地の南から西にかけての縁辺は、縄文海進の時期にはちょうど海や内湾に面していた可能性が高い。台地のへりは、海に近く、しかも水につかりにくい高みである。そこは人が暮らすのに適した場所であり、貝塚が生まれる条件を備えていた。

いま内陸に見える「貝塚」は、海が退いたあとに残された、古い海岸線の記憶なのである。

これは推測の域を出ないが、縄文時代の具体的な海岸線が、現在のどの道路・どの等高線にちょうど一致したのかを正確に復元することは難しい。海面の高さは時期によって上下し、その後の天竜川の堆積でも地形は大きく変わったからである。「およそこのあたりまで海が来ていた」という幅をもった理解にとどめるのが妥当である。

磐田原台地 ── 海と陸を分けた高まり

第二の鍵が、磐田の地形そのもの――磐田原台地(いわたはらだいち)である。

磐田原台地いわたはらだいち

磐田市の中央を南北にのびる、周囲よりひと段高い台地。天竜川の東に位置し、河川が運んだ砂礫が長い年月をかけて段丘となったもの。見付の市街はこの台地の南端にあり、台地と低地の境目(崖線・へり)には湧き水や古い集落が並ぶ。

事実として、磐田原台地は天竜川がつくった河岸段丘(かがんだんきゅう)にあたり、周囲の低地より高い。台地の上は水はけがよく、水につかりにくい。一方、台地のふもとの低地は、もとは海や潟、のちには湿地・水田となった土地が多い。

この「高い台地」と「低い土地」の組み合わせが重要である。解釈になるが、縄文海進で海が低地に入り込んだとき、台地のへりはちょうど海を見下ろす岸辺となった。そこに人が住み、貝を採って暮らした。海が退いたあとも、台地と低地の境界線は地形として残り続け、古い集落や地名の並びとなって現在に伝わっている。

天竜川 磐田原台地 (水はけのよい高み) 低地・ 縄文の海 台地のへりに 並ぶ貝塚・集落 台地のへり=かつての海辺。そこに「貝塚」の名が残る(模式図)
図:天竜川がつくった磐田原台地と、その東のへりに広がった低地・縄文の海。台地と低地の境目に、貝塚や古い集落が並ぶ(位置関係は模式的に示したもの)。

磐田の貝塚 ── 石花貝塚と周辺の遺跡

地名としての「貝塚」だけでなく、磐田には実際の縄文貝塚も知られている。代表的なものが石花貝塚(せっかかいづか)である。

石花貝塚せっかかいづか

磐田原台地の縁辺に位置する縄文時代の貝塚遺跡。台地のへりに人が暮らし、近くの水辺で採った貝を食べていたことを示す。磐田に縄文の海が近かったことを物語る、地形と暮らしの証拠のひとつとされる。

事実として、磐田原台地とその周辺には、縄文・弥生から古墳時代にいたる多くの遺跡が分布している。台地は古くから人が住みやすい場所だった。貝塚はそのうち、海や水辺の幸を利用していたことを直接示す遺跡として重要である。

解釈になるが、「西貝塚」「東貝塚」という地名と、石花貝塚のような実際の貝塚遺跡とが、同じ台地のへりという地形条件の上に並んでいることは、偶然ではないだろう。海に近かった時代の記憶が、遺跡として、また地名として、二重に残っていると読める。

表1:磐田の「貝塚」にまつわる主な地名・遺跡(概観)
名称性格位置・特徴の概観
西貝塚
(にしかいづか)
地名(大字)・旧村域磐田原台地の西側。明治以降の村として独立し、のちに西貝村を構成。現在も大字として残る。
東貝塚
(ひがしかいづか)
地名(大字)・駅名台地の東寄り、御厨地区に属する。東海道本線の「御厨駅」開業前から地名・通称として知られる。
石花貝塚
(せっかかいづか)
縄文時代の貝塚遺跡台地のへりに位置する貝塚。縄文の海が近かったことを示す考古資料。
その他の台地上遺跡縄文〜古墳時代の遺跡群磐田原台地一帯には古墳や集落跡も多く、長く人が暮らした土地であることがうかがえる。

※遺跡の正確な所在地・範囲・年代の詳細は、磐田市の文化財担当や発掘調査報告によるのが確実である。本表は地名と地形の関係を概観するためのもので、調査上の確定情報に代わるものではない。

地形史の年表 ── 海から村へ

「貝塚」という地名が生まれ、やがて村の名へと変わっていく流れを、地形と歴史の時間軸で大づかみに整理しておく。年代はおおよその目安であり、地域や資料によって幅がある。

表2:縄文の海から「貝塚」地名・村まで(概略年表)
時期(目安)地形・海のようす人と土地のうごき
約2万年前
(最終氷期)
海面は今よりはるかに低い。海岸線は沖合にあった。台地のもとになる地形が形づくられていく。
約6千年前
(縄文前期)
縄文海進のピーク。海面が高く、海が内陸まで入り込む。台地のへり(海辺)に人が暮らし、貝を採る。貝塚が形成される。
縄文後期〜
弥生・古墳
海が少しずつ退き、低地が広がる。潟・湿地が残る。台地上に集落・古墳が営まれる。海辺は遠ざかる。
中世〜近世天竜川の堆積で低地が陸化。海岸線は南へ後退。低地が開かれ、村が成立。「貝塚」が村・小字の名として定着。
明治〜昭和河川改修・耕地整理で地形が整えられる。西貝塚などが近代の村・大字となり、合併で磐田市域へ。

これは推測を含む整理だが、こうして時間軸に置くと、「貝塚」が一気にできた地名ではなく、縄文の海 → 海退 → 低地の村、という長い地形の変化の上に、古い記憶として残されたものだと見えてくる。

西貝村と合併 ── 「貝塚」の村が磐田市になるまで

「西貝塚」は、地名であると同時に、近代には行政上の村の名でもあった。ここでは、その合併の歩みを整理する。

事実として、西貝塚を含む地域は、明治の町村制のもとで村を構成し、のちに西貝村(にしがいむら)としてまとまった。そして1940年(昭和15年)11月1日、見付町・中泉町・天竜村とともに合併し、磐田町が発足する。西貝村は、磐田町をかたちづくった四つの町村のひとつだった。

西貝村にしがいむら

「西貝塚」などを含む、磐田原台地の西側の村。1940年に見付町・中泉町・天竜村と合併して磐田町となり、独立した自治体としての歴史を終えた。現在は「西貝地区」として、西貝塚・安久路(あくろ)・上南田・城之崎・西之島・東山などの大字を含む。

表3:「貝塚」地名の現在の所属(現地名の対応)
地名現在の地区合併でのうごき(概要)
西貝塚西貝地区西貝村の中心的な大字。1940年に磐田町、1948年に磐田市へ。
東貝塚御厨地区御厨村に属し、1955〜57年の編入で磐田市域に。
安久路・西之島ほか西貝地区西貝塚とともに西貝地区を構成する大字。
鎌田・新貝・稗原御厨地区東貝塚と同じ御厨地区の大字。御厨村として編入。

解釈になるが、「西貝塚」が西貝村→磐田町→磐田市と上位の枠を変えながらも、大字としての名を保ち続けたことは、地名の粘り強さをよく示している。村という制度は変わっても、土地につけられた名はなかなか消えない。第一回で見た旧村名の残存と同じ現象が、ここでも起きている(第一回参照)。

なお、「西貝塚」と「東貝塚」は、それぞれ西貝村・御厨村という別の村に属していた。これは推測の域を出ないが、「西」「東」という対の呼び分けは、もともと同じ「貝塚」という地名の地域が東西に分かれていたのか、あるいは別々に生まれた地名がたまたま方角で区別されたのか、はっきりしない。地名の発生過程は、今後の調査を要する点である。

地名から土地の履歴を読む

「貝塚」という地名は、土地が歩んできた長い時間を、ひとことで指し示している。海が近かった時代、人が貝を採って暮らした記憶、そして海が退いて村になっていった歴史――それらが地名に畳み込まれている。

埋蔵文化財包蔵地まいぞうぶんかざいほうぞうち

貝塚・古墳・集落跡など、地中に遺跡(埋蔵文化財)が埋もれていることが知られている土地。法律により、その範囲で土木工事などを行う際は事前の届け出が必要とされ、発掘調査が求められることがある。地名や旧地形は、こうした包蔵地の手がかりになる。

事実として、貝塚や遺跡のある土地は、埋蔵文化財包蔵地として地図にまとめられていることが多い。磐田市でも、台地とそのへりには包蔵地が広く分布している。土地に関わるとき、その場所が包蔵地かどうかを確認しておくことには意味がある。

古い土地や実家を引き継ぐとき、また空き家となった家屋敷の扱いを考えるとき、その土地が埋蔵文化財包蔵地に含まれていないかをあらかじめ確かめておくと、後の手続きで慌てずにすむ(くわしくは埋蔵文化財のページを参照)。地名はそのとき、土地の履歴を読み解く最初の手がかりになる。

「事実・解釈・推測」を分けて読む

「貝塚」という地名を読むときも、確かなことと、そうでないことを区別しておきたい。本記事の立場を整理する。

三つの区別(本記事の場合)

よくある疑問(FAQ)

Qそもそも「貝塚」とは何ですか。

貝の殻を捨てた場所の跡です。縄文時代などに人びとが食べた貝の殻を、長いあいだ同じ場所に捨て続けてできた層が貝塚です。貝殻のほか、骨や土器片が混じることもあり、当時の食生活や環境を知る貴重な遺跡とされています。

Q海から離れた内陸に、なぜ貝塚があるのですか。

昔は海が今より内陸まで来ていたからです。約6千年前の縄文海進という時期には、海面が現在より数メートル高く、海が低地の奥まで入り込んでいました。当時の海辺だった場所に貝塚ができ、その後に海が退いたため、いまは内陸に見えるのです。

Q縄文の海は、磐田のどこまで来ていたのですか。

はっきりとは特定できません。磐田原台地のへりあたりが当時の海や内湾に面していた可能性が高い、とは考えられますが、海面の高さは時期によって変わり、その後の天竜川の堆積でも地形は大きく変わりました。「およそこのあたりまで」という幅をもった理解にとどめるのが妥当です。

Q「西貝塚」と「東貝塚」は同じ村だったのですか。

別の村に属していました。西貝塚は西貝村に、東貝塚は御厨村に含まれていました。西貝村は1940年に磐田町を構成し、御厨村は1955〜57年に磐田市へ編入されています。「西」「東」と呼び分けられた由来ははっきりせず、今後の調査が必要です。

Q土地を扱うとき、埋蔵文化財の確認はなぜ必要なのですか。

遺跡のある土地では事前の手続きが求められることがあるからです。貝塚や古墳のある土地は埋蔵文化財包蔵地に指定されていることがあり、その範囲で工事をする際は届け出や発掘調査が必要になる場合があります。あらかじめ確認しておくと、土地の活用や売却の段取りで慌てずにすみます。

もっと知るための手がかり

調べる場所
磐田市の文化財・埋蔵文化財の窓口、市立図書館(『磐田市誌』、地域の発掘調査報告書ほか)。
地図で見る
埋蔵文化財包蔵地の分布図や、国土地理院の旧版地形図・空中写真で、台地のへりと低地の境目をたどれる。
関連記事
第一回・村が町になるまで第七回・台地のへりの村々埋蔵文化財古墳

主な参考

連載の目次へ 第三回 二之宮はなぜ中泉と一つになったか 第五回 天竜川がつくった村、流した村 埋蔵文化財をたどる