古墳から見る磐田
── 台地と川がつくった、王たちの土地
なぜ、磐田に古墳が多いのか
古墳は、どこにでも築けるものではない。大きな墓をつくるには、まず、それを支える豊かな土地と、大勢の人を動かす力をもった有力者が必要である。さらに、墓を築くのにふさわしい地形――水につかりにくく、見晴らしのよい、安定した土地が要る。磐田には、その条件がそろっていた。鍵をにぎるのは、「磐田原台地(いわたはらだいち)」である。
磐田原台地は、天竜川と太田川にはさまれた、なだらかな台地である。周囲の低地よりも一段高く、水害を受けにくい。そして、その縁(へり)に立てば、天竜川の流れや、はるか遠州灘までを見わたすことができる。古代の有力者にとって、ここは墓を築くのに理想的な場所だった。高くそびえる墓は、自らの力を、生きている人々にも、川を行き交う人々にも、見せつけることができたからである。磐田の主要な古墳が、台地の縁に集まっているのは、偶然ではない。
川がもたらした、力と交通
台地の高さだけが、古墳を生んだのではない。もうひとつ大切なのが、「川」である。天竜川と太田川は、ときに洪水をもたらす脅威であると同時に、豊かな恵みと、交通の道でもあった。川は、上流の山と下流の海をつなぐ大動脈である。木材や産物が川を下り、人と情報が行き交う。その流れを押さえた者が、富と力を握った。
とりわけ、天竜川の東岸という磐田の位置は重要だった。東西を結ぶ陸の道(のちの東海道)と、南北に通じる川の道とが、ここで交わる。この交通の要衝を支配した有力者が、台地の縁に大きな墓を築いた。銚子塚古墳の被葬者が、大和の中央政権とつながる銅鏡を持っていたことも、この地が交通を通じて広い世界とつながっていたことを物語っている。古墳の大きさは、その人物が握った交通と富の大きさの、いわば目に見えるかたちなのである。
四つの古墳群が語ること
磐田の国指定の古墳関係文化財を、地形の視点から並べてみると、それぞれの立地が、別々のことを語っているのがわかる。
銚子塚古墳・小銚子塚古墳(寺谷/台地の西縁)
磐田原台地の西の縁、天竜川を見おろす位置にある。県内第3位という規模は、天竜川の交通を押さえた首長の、抜きんでた力を示す。台地の縁という、最も見晴らしのきく場所が選ばれている。
新豊院山古墳群(向笠竹之内/台地の東)
台地の東側に位置する古墳群。西の銚子塚とは別の地点に有力者の墓があることは、台地の上に、いくつかの勢力が並び立っていた可能性を示す。
御厨古墳群(新貝・鎌田/南の平野部)
台地ではなく、南の平野部・太田川流域に分布する。これは、古墳が台地の上だけのものではなく、川沿いの低地にも、暮らしと有力者がいたことを示している。「御厨」という地名も、この土地の古い役割をしのばせる。
明ヶ島古墳群出土土製品(見付)
こちらは墳丘そのものではなく、古墳から出土した「もの」が文化財である。人や動物をかたどった土製品は、古墳の上で行われた祭りのありさまを伝える。墓は、ただの埋葬の場ではなく、祈りと儀式の場でもあったのだ。
古墳は、地形を読む手がかり
こうして見てくると、古墳は、ただ「古い墓」なのではないことがわかる。それは、その土地がどういう地形で、どこが安全で、どこが交通の要だったのかを教えてくれる、地形の証言者なのである。古墳のある場所を地図にしるしていくと、おのずと、古代の人々が「住みやすい」「力を示せる」と考えた土地が、浮かびあがってくる。
そして興味ぶかいことに、その古墳が選んだ高台や要衝は、のちの時代にも、しばしば重要な土地であり続けた。古墳時代の有力者が見晴らしのよい台地を選んだように、奈良時代の人々はそこに国府や国分寺を置き、近世の人々は街道と宿場を通した。土地のもつ条件は、時代を越えて、人を引きつける。古墳は、その最初の選択の跡なのである。次の世代へ残したいのは、こうして「足もとの地形から、まちの歴史を読む」というまなざしなのだと思う。
主な参考資料
- 磐田市公式ウェブサイト「国指定文化財」(銚子塚古墳・新豊院山古墳群・御厨古墳群・明ヶ島古墳群出土土製品の指定情報)
- 磐田物語「銚子塚古墳と、遠江を治めた王の眠り」(関連読みもの)
本ページの古墳名・指定区分・所在地などの事実情報は、磐田市公式ウェブサイトの公開情報にもとづく。地形と古墳の関係についての考察は、磐田物語編集部による独自の記述であり、図は位置関係を示す模式図である。正確な所在地・見学情報は、磐田市公式情報を確認されたい。出典:磐田市公式ウェブサイト。