NATIONAL CULTURAL PROPERTIES
磐田市の国指定文化財
磐田に国指定文化財が集まる意味
ひとつの市に、これだけ多様な国指定文化財があること自体が、磐田の歴史の厚みを物語っている。古墳が複数、奈良時代の特別史跡、明治の学校、そして無形の祭礼まで。これは、磐田が古墳時代から近代まで、途切れることなく地域の中心であり続けたことの、何よりの証である。以下、8件を、それぞれの時代順に近いかたちで紹介する。指定区分・年代・所在地といった事実情報は磐田市公式情報にもとづき、解説は磐田物語の視点で記した。
銚子塚古墳 附 小銚子塚古墳
史跡磐田原台地の西縁に築かれた、全長約110メートルの前方後円墳。県内第3位の規模をもつ。
国府が置かれるよりはるか前、4世紀の磐田に大きな力をもつ豪族がいたことを示す。隣の小銚子塚古墳は、県内に5例しかない貴重な前方後方墳である。
古墳は、まちの始まりの「いちばん古い記憶」である。台地の縁という立地が、なぜ選ばれたのか――地形から考えると、見えてくるものがある。
新豊院山古墳群
史跡向笠竹之内に所在する古墳群。古墳時代前期から中期にかけての、磐田原東部の様相を伝える。
銚子塚古墳とともに、磐田原台地に古墳時代の有力者が連なって眠っていたことを物語る。台地の縁という立地が、古墳の分布と深く関わっている。
一つの大きな古墳だけでなく、古墳が「群れ」をなしていること。そこに、代を継いで土地を治めた一族の姿が浮かぶ。
御厨古墳群
史跡新貝・鎌田に分布する古墳群。磐田南部、太田川流域の古墳時代の様相を伝える。
磐田原台地だけでなく、平野部・河川沿いにも古墳が築かれていたことを示す。古墳の分布から、古代の人々の暮らしの広がりが見えてくる。
「御厨(みくりや)」という地名は、神社や朝廷に食料を納めた土地に由来することが多い。地名と古墳を重ねると、土地の古い役割が見えてくる。
明ヶ島古墳群出土土製品 附 土製品残欠
重要文化財明ヶ島古墳群から出土した、人物や動物などをかたどった多数の土製品。古墳時代の祭祀のありさまを伝える。
土地(史跡)ではなく、出土した「もの」が重要文化財に指定された例。古墳に供えられた土の造形から、当時の人々の祈りのかたちが読みとれる。
土でつくられた小さな人や動物。それを供えた人の手と心を想像すると、千数百年の時が、ふっと近くなる。
遠江国分寺跡
特別史跡天平13年(741年)の聖武天皇「国分寺建立の詔」により、遠江国府の置かれた磐田に建てられた国分寺の跡。七重塔・金堂を備えていた。
全国の国分寺跡のなかでも早くに伽藍配置が解明され、史跡の最高格である「特別史跡」に指定されている。古代の磐田が遠江国の中心だったことを示す、まちの原点である。
「国分寺がここにある」ことは、「国府がここにあった」こととほぼ同義である。磐田が遠江の都だった時代の、確かな証である。
熊野の長フジ
天然記念物池田の行興寺にある、樹齢を重ねたフジの巨木。長く垂れる花房で知られる。
平安の女性・熊野(ゆや)御前ゆかりと伝えられる。文化財は石や建物だけではない。生きて季節ごとに花を咲かせる樹木もまた、地域の記憶を背負っている。
毎年、花の季節になると人が集う。生きた文化財を守ることは、その木とともにある時間を守ることでもある。
旧見付学校 附 磐田文庫
史跡明治8年(1875年)落成の、現存最古とされる木造擬洋風小学校校舎。隣接する磐田文庫とともに史跡に指定されている。
「見付の五階」と親しまれた校舎。寺子屋・私塾・磐田文庫へと続く、学びのまち磐田の蓄積の上に建った。文明開化の息吹を今に伝える。
城の石垣を土台に学校が建つ。古いものを壊さず受け継いで新しいものをのせる――そのまちの姿勢が、建物そのものに表れている。
見付天神裸祭
重要無形民俗文化財矢奈比賣神社の祭神が、遠江国総社・淡海國玉神社へ渡御する大祭。腰蓑姿の裸衆による鬼踊りと、漆黒の闇の神輿渡御で知られる。
形あるものだけが文化財ではない。人々の手で毎年くり返される神事もまた、国の宝とされる。総社渡御という古代の信仰のかたちを、今に伝えている。
文化財のなかで、唯一「生きて動く」もの。守るとは、保存ではなく、毎年それを担う人がいるということである。
主な参考資料
- 磐田市公式ウェブサイト「国指定文化財」(ページ番号1002037)
- 同・各文化財の個別ページ(上記カード内「公式情報」リンク先)
本ページの文化財名・指定区分・種別・指定年月日・年代・所在地は、磐田市公式ウェブサイトの公開情報にもとづく事実情報である。各文化財の「ひとことでいうと」「なぜ重要か」「磐田物語メモ」は、磐田物語編集部による独自の要約・記述である。正確な指定内容は、必ず各公式ページを確認されたい。出典:磐田市公式ウェブサイト。