石川鴻斎をどこから読むか

資料からPDFに収められた「石川鴻斎小伝」は、鴻斎を天保4年(1833)生まれ、大正7年(1918)没の人物として紹介する。若いころから漢学、詩文、和歌、俳句、茶道、南画をよくし、単に「絵を描いた人」ではなく、漢詩・書・画を往来する文人であったことが分かる。

読み方鴻斎は、福田半香や平井顕斎のように磐田市域の一点だけに結びつけるより、明治期の東京文壇と、晩年の見付をつなぐ人物として読むと姿が見えやすい。近代に入ってからも、遠州には文人画を受け止め、語り合い、作品として残す場があった。

幼少期の学問と漢籍への没頭

学び小伝では、鴻斎が幼少のころから才知にすぐれ、読書に没頭したこと、吉田の西岡翠園、大田晴軒、岡崎の會我耐軒について学んだことが記される。さらに自ら漢籍を読み進め、仏書にまで及んだとされ、漢学者としての基礎は早くから養われていた。

広さここで注目したいのは、鴻斎の学びが絵だけに閉じていないことである。漢詩を読み、文章を書き、書をよくし、茶や俳諧にも通じる。この広い教養が、のちの南画作品の余白や題詩、書風の背景になっている。

東京での仕事と文人としての名声

明治東京明治10年(1877)1月から鴻斎は東京へ移り、書店で編集の仕事に携わったのち、増上寺の旧学寮をもとに開かれた学校で漢学教師となった。資料は、清国から来朝した使節が増上寺に滞在した際、鴻斎が筆談をもって会談に加わったことも伝えている。

著作このころ、鴻斎の詩文は冊子にまとめられ、東京文学堂から『芝山一笑』として刊行された。これにより漢学者としての名声が高まり、その後は全国の文人名士と交わり、著作も多く手がけたとされる。小野湖山、前田黙鳳、依田学海、富岡鉄斎ら当時一流の文人の名も、鴻斎の交流圏を考える手がかりになる。

南画家としての鴻斎

画風資料は、鴻斎の画風を「まぎれもない南画」としながら、具体的に誰に師事したかは明らかでないとする。ただし遺作の山水画には、遠江の平井顕斎や福田半香に相通じるものがあるとされる。漢詩や文章を本領としながら、余技にとどまらない明確な画風を持っていた点が重要である。

華山への敬意小伝は、鴻斎が渡辺華山を深く尊拝していたことにも触れる。華山の模倣画が多く見られるという記述は、鴻斎が近世から近代へ移る時期に、華山系の文人画をどのように受け止めたかを考える入口になる。

作品目録が伝える制作の継続

作品PDFには、過年に豊橋市美術館で行われた展覧会目録の参考資料が含まれ、明治から大正にかけての作品名が並ぶ。春景山水図、山水十二景図、蘭亭曲水図、牡丹図、竹図など、山水と花卉を中心に制作を続けていたことが分かる。

制作年目録に見える制作年は、明治20年代から大正7年まで及ぶ。つまり鴻斎は、晩年まで筆を置かなかった。見付に移った後の時期も含め、地域の人々が鴻斎の書画を受け取り、保存してきたことが、現在の資料群につながっている。

見付に閑居した晩年

見付小伝は、明治28年ごろから鴻斎が静岡県見付、現在の磐田市見付に閑居し、尾張・三河・遠江を活動領域として文人墨客と往来したと記す。これは磐田物語にとって大切な点である。見付は旧東海道の宿場町であるだけでなく、近代にも文人を迎え、書画を味わう場であり続けた。

晩年鴻斎は大正7年(1918)9月13日、86歳で没したとされる。見付で過ごした晩年は、中央で名を得た漢学者・文人画家が、遠州の地に身を置きながら人と交わり、作品を残した時間であった。

磐田物語で読む意味

地域文化石川鴻斎を読むことは、遠州南画を「幕末の福田半香・平井顕斎」だけで終わらせないための作業でもある。明治、大正へ時代が移っても、漢詩を読み、書画を愛し、文人を迎える地域の力は続いていた。見付に晩年を置いた鴻斎は、その継続を示す人物である。