磐田物語。遠江・見付のまちの歴史と文化
磐田物語 / 見付宿と、東海道のにぎわいの記憶
東海道・見付宿 | 宿場町の記憶

見付宿と、
東海道のにぎわいの記憶

旧見付学校や淡海國玉神社のある、見付のまちなみ。あの一本道は、ただの古い通りではない。かつて、江戸と京をむすんだ東海道――その二十八番目の宿場、見付宿の目抜き通りだった。大名行列が行き交い、旅人がひしめいた街道のにぎわいを、たどってみたい。
江戸 見付宿 二十八番目・ほぼ中央 姫街道(本坂通)へ分岐
見付宿は、江戸・日本橋から数えて二十八番目、東海道五十三次のほぼ中央にあたる宿場だった。ここで、浜名湖の北をまわる姫街道(本坂通)が分岐していた。(位置関係をもとにした模式図)

見付のまちを歩くと、東西に一本、まっすぐな通りが貫いているのに気づく。今は「見付宿場通り」と呼ばれるこの道こそ、旧東海道である。江戸時代、ここを一日に何百、何千という旅人が歩いた。荷を担ぐ人足、伊勢参りの講中、参勤交代の大名行列――。今の静かなたたずまいからは想像しにくいが、ここはかつて、東海道でも屈指のにぎわいを誇る宿場だった。

富士を見つける、まち

見付宿は、東海道五十三次の二十八番目の宿場である。日本橋を出て京をめざす旅人にとって、ちょうど道のりの真ん中あたりにあたる。「見付」という地名の由来には、いくつかの説がある。一つは、水に接する土地――「水付(みづき)」が転じたという説。もう一つ、旅人のあいだで語られてきたのが、東から来て、このあたりで初めて富士山を「見つける」ことができたから、という説である。どちらが正しいとも言いきれないが、街道を行く人の心持ちを思えば、富士を見つけた喜びの説には、つい心がひかれる。

見付が宿場として大きかったのには、わけがある。ここはもともと、東海道が整備されるよりずっと前、平安のころから遠江国の国府が置かれた、由緒ある土地だった。これまでに書いてきた遠江国分寺、府八幡宮、淡海國玉神社――それらはみな、見付が古代から遠江の中心であったことの証である。さらに、見付天神や国分寺の門前町でもあった。古い格と信仰の蓄積の上に、江戸の宿場町が重なった。だからこそ、見付宿は他の宿場とは一味ちがう、重みのあるまちだったのである。

本陣に脇本陣、旅籠が立ち並ぶ

宿場のにぎわいを、数字で見てみよう。江戸後期の記録によれば、見付宿には家が千軒あまり、本陣が二軒、脇本陣が一軒、そして旅籠屋が五十六軒もあったという。これは、東海道の宿場のなかでも、かなりの規模である。

本陣とは、大名や公家、幕府の役人といった、身分の高い人々が泊まるための、特別な宿である。参勤交代の大名行列がやってくると、宿場はてんてこ舞いの忙しさになった。脇本陣は、本陣がふさがったときの予備の宿。そして旅籠は、一般の旅人が泊まる宿で、夕食と朝食がついた。五十六軒もの旅籠が並んでいたというから、夜の見付宿は、旅人たちのざわめきと、客を呼びこむ女中の声で、さぞにぎやかだったことだろう。

宿場には、もう一つ欠かせない施設があった。問屋場である。ここは、荷物や手紙を次の宿場へ送りつぐための、いわば物流と通信の拠点だった。常に人足と馬が用意され、街道を行く荷を、リレーのように継いでいった。見付宿の問屋場は、東坂町という一画に置かれていたと伝えられる。大名行列の差配から、飛脚の中継まで、宿場のあらゆる動きが、ここを中心にまわっていたのである。

川と、もう一つの街道と

見付宿の西には、天竜川が流れている。東海道を西へ進む旅人は、ここで川を渡らなければならなかった。よく知られた大井川は「越すに越されぬ」難所だったが、天竜川は水深があったため、もっぱら船で渡った。とはいえ、大水が出れば「川止め」となり、旅人は渡れずに足止めをくらう。そんなとき、見付宿の旅籠は、川が落ちつくのを待つ人々であふれかえったという。川のすぐ手前の宿場であることが、見付のにぎわいを、いっそう大きくしていた。

そして、見付宿は、もう一つの街道の分かれ道でもあった。浜名湖の北側をまわって本坂峠を越える「本坂通」――のちに「姫街道」と呼ばれる道が、ここ見付で東海道から分かれていた。東海道の今切の渡しを避けたい人々が、この脇街道を選んだ。二つの街道が出会い、川を控えた要の地。見付宿は、まさに交通の結節点だったのである。

面影は、どこに残るのか

正直に言えば、今の見付のまちを歩いても、江戸時代の宿場の建物は、ほとんど残っていない。本陣のあった場所も、問屋場のあった場所も、今は別の建物に変わっている。街道に沿って古い町家が連なる、というような景色を期待すると、少し物足りなく感じるかもしれない。時の流れは、容赦なくまちのかたちを変えていく。

それでも、面影がまったく消えたわけではない。脇本陣だった「大三河屋」の門は、今も移築されて残っている。まちのはずれには、街道の両側に対で残るという、めずらしい一里塚(阿多古山一里塚)もある。そして何より、あの東西にまっすぐ貫く道筋そのものが、江戸時代の東海道の道筋を、ほぼそのまま今に伝えている。建物は変わっても、道は残る。その道を歩くだけで、私たちは旅人と同じ地面を踏んでいるのである。

次の世代へ、手渡したいもの

見付宿は、ただの古い通りなのではない。国府以来の長い歴史を土台に、江戸時代には東海道屈指の宿場として栄えた、まちの誇るべき過去である。本陣のにぎわい、旅籠のざわめき、川止めの足止め、姫街道の分かれ道――そのすべてが、あの一本道の記憶のなかに、たたみこまれている。

建物が残っていないことを、嘆く必要はないのかもしれない。大切なのは、目の前の道が、かつて何だったのかを知っていることだ。知っていれば、何でもない通りが、急に物語をはらんだ道に見えてくる。残すべきは、建物だけではない。「この道は東海道だった」という記憶もまた、受け継ぐべき大切な遺産なのである。

見付宿場通りを歩くとき、ふと立ちどまって、隣の人に伝えてみる。「この道はね、昔の東海道で、お殿様の行列も通ったんだよ」と。アスファルトの一本道が、急に、旅人と馬と荷でにぎわう宿場の通りに見えてくる。次の世代へ残したいのは、そうやって「道に歴史を重ねて見る」まなざしなのだと思う。

主な参考

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