失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語中泉地区 / 澄水山古墳
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澄水山古墳

市指定・史跡中泉古墳時代磐田市公式で要確認

磐田農業高校の敷地に守られた、帆立貝のかたちをした古墳。磐田原台地の縁が市街地へ落ちる、その境目に古墳時代の記憶が残る。

何が残っているのか

磐田市中泉、磐田農業高校の構内に伝わる古墳で、前方部が短い帆立貝式の墳丘を市指定史跡として残す。

なぜ価値があるのか

大型古墳が並ぶ磐田原台地の西縁とは対照的に、台地の南東の縁、市街地のただ中に残る古墳である点に価値がある。

どの歴史につながるのか

銚子塚・米塚など台地の古墳群と、中泉という近世以降のまちの記憶が、この一点で重なって読める。

公式情報の整理

文化財名
澄水山古墳(しみずやまこふん)
指定区分
市指定・史跡
種別
史跡(古墳)
指定年月日
磐田市公式で要確認
年代
古墳時代(5世紀前半とみられる)
所在地
磐田市中泉(中町)168
所有者・管理者
磐田市公式で要確認(校地内のため学校・市の管理下にあると考えられる)
公式情報
磐田市公式「指定文化財」該当ページで要確認

このページでは、指定区分(市指定)、種別(史跡)、年代(古墳時代)、所在地(磐田市中泉)を事実情報として扱う。一方、指定年月日については、磐田市公式の指定文化財情報で確実な月日を確認できなかったため、断定を避けて「磐田市公式で要確認」とした。年代については複数の資料が5世紀前半とするため、本文では「とみられる」として推定を含めて記す。

澄水山古墳を読むときの入口になる語は「中泉 / 磐田原台地 / 帆立貝式 / 磐田農業高校 / 澄水(しみず)」である。これらを分けて見ていくと、墳丘という一個の遺構が、台地の地形、近世のまち、近代の学校、そして地名というそれぞれ別の時間の層を束ねていることが見えてくる。指定文化財はその束を解く手がかりであって、説明板の一行で終わるものではない。

土地と地形から読む

台地の縁、その南東のはずれ

磐田の古墳を考えるとき、まず手がかりになるのは磐田原台地という地形である。天竜川と太田川(今之浦)に挟まれた洪積台地で、平地より一段高く、水はけのよい乾いた台地が南北に長く広がる。古墳や遺跡は、この台地のまんなかではなく、縁にあたる斜面の肩のあたりに集中して残る。眺めがきき、低地の集落から見上げられ、しかも墳丘を築くのに足る固い地盤がある——台地の縁はそういう条件を満たす場所だった。

澄水山古墳が立つのは、その磐田原台地が南東に向かって市街地へと落ちていく、縁辺のあたりである。台地の西の縁、向陽の寺谷や向笠竹之内のあたりには銚子塚・新豊院山・米塚・長者屋敷といった古墳が密集する。それに対して澄水山古墳は、台地をぐるりと回り込んだ反対側、中泉という近世以降のまちにごく近い縁に位置する。同じ台地に属しながら、立地の性格はずいぶん違う。

この違いは小さく見えて大きい。西縁の古墳群は、低地を見下ろす高みに王の墓を連ねた「奥まった聖域」として読める。これに対して澄水山古墳は、後の世にまちが広がり、駅ができ、学校が建つことになる平場のすぐ際に残った。古墳が築かれた当時の景色と、いま私たちがそこを訪ねる景色とのあいだのずれが、ここではとりわけ大きいと考えられる。

帆立貝のかたちが語ること

澄水山古墳は、前方後円墳のうちでも前方部がごく短く張り出す「帆立貝式(帆立貝形)」と呼ばれる形をとると伝えられる。円い後円部に、小さな前方部が貝のへりのように付く姿で、全長はおよそ55メートル程度とされる。前方後円墳の王道の姿である銚子塚のような長大な墳丘に比べると、ひと回り小ぶりで、形も簡素である。

古墳の形と大きさは、葬られた人の地位や、その人を送った集団の力を映すと考えられている。長大な前方後円墳が地域の盟主の墓だとすれば、帆立貝式の中規模古墳は、その盟主に連なりつつも一段下に位置づけられた有力者の墓と読むことができる。澄水山古墳を、台地の主たる王墓群とは別の場所に、別の規模で築かれた古墳として見ると、当時の磐田の社会に層があったことがうかがえる。

ただし、墳丘の正確な築造順序や被葬者像を断定する材料は、この読みものの手元にはない。形からの解釈はあくまで「そう読み取れる」という推定であり、発掘調査の成果や編年研究の更新によって書き換わりうるものとして扱う。

「澄水(しみず)」という名を読む

この古墳の名は「澄水山」と書いて「しみずやま」と読む。澄んだ水の山、という字面である。古墳そのものは古墳時代の遺構だが、「澄水山」という呼び名がいつ付いたのかは別の問題で、後世に土地の人びとが墳丘の小山に与えた名と考えるのが自然である。

台地の縁という地形は、しばしば湧水と縁が深い。乾いた台地に降った雨が地中を下り、台地が低地へ落ちる斜面の裾から地下水となって湧き出す——これは磐田原台地の各所で見られる仕組みである。「澄水」という名が、こうした台地縁辺の清らかな湧き水に由来する可能性は十分に考えられる。澄んだ水の出る山、あるいは澄んだ水のほとりの小山、という土地の記憶が名に残ったとみる読み方である。

もっとも、これは地名と地形からの推定であって、確実な由来の記録を確認したものではない。「澄水」が湧水に由来するのか、別の言い伝えや当て字によるのかは、今後の郷土資料の照合に委ねたい。ここでは、古墳の名が地形や水と結びついて語られてきた可能性を示すにとどめる。地名が土地の自然条件を覚えている、というのは磐田の各地でくり返し見られることであり、澄水山もその一例として読めるだろう。

中泉のまちのなかの古墳

澄水山古墳が立つ中泉は、古墳時代のあとに長い歴史を重ねた土地である。江戸時代には幕府の直轄領となり、中泉代官所が置かれて、遠州一帯の天領を治める拠点となった。近代に入ると東海道本線が通り、磐田駅を中心に市街地が形づくられていく。府八幡宮の杜が、そうしたまちの移り変わりのなかでも古い軸として残る。

古墳が築かれてから千数百年、中泉は代官所のまちとなり、鉄道のまちとなり、そして学校のまちにもなった。澄水山古墳は、その時間の重なりのいちばん下の層に静かに残ってきた遺構である。市街地に近い縁辺に位置するということは、開発の波にさらされやすかったということでもある。住宅地や施設が広がるなかで、墳丘がまとまったかたちで残されてきたのは、それが学校の敷地に取り込まれたことと無関係ではないと考えられる。

不動産という視点から見ても、台地の縁という土地は、眺めと地盤の良さから古来人が手を入れたがる場所だった。古墳の時代に墳丘が築かれ、近代に学校が選地され、いまも住宅地として価値を持つ——同じ台地の縁が、時代ごとに違う理由でくり返し選ばれてきた。澄水山古墳は、その「選ばれ続けた土地」の最も古い記憶として読むことができる。

磐田農業高校とともに残る

澄水山古墳は、磐田農業高校の校地のなかに位置する。学校の敷地に古墳がある、という状況は全国にいくつも例があるが、それは偶然ではない。学校はまとまった平場と一定の高みを必要とし、台地の縁はその条件を満たした。結果として、古墳を含む土地が一括して学校用地となり、墳丘が宅地化や道路の改変を免れて守られた、という経緯が考えられる。

同じ磐田農業高校には、近代の学校建築として記念館も知られ、古墳とあわせて「ふるさと磐田の指定・登録文化財」のなかで紹介されてきた。古墳時代の墳丘と近代の校舎が、ひとつの敷地のなかに同居している。これは、台地の縁という同じ立地条件が、千数百年の時を隔てて二度選ばれた結果と読むこともできる。学校という場が、はからずも古墳の保存装置として働いてきたわけである。

ただし、校地内にある以上、見学は学校の管理と教育活動が優先される。塀の外から墳丘の高まりを望むことはできても、自由に立ち入って間近に見られる性質のものではない。守られてきた条件をそのまま尊重することが、この古墳を読むうえでの前提になる。

周辺の文化財と並べて読む

澄水山古墳の意味は、単体で見るよりも、磐田原台地に並ぶ古墳群のなかに置いたほうがはっきりする。台地の西縁に立つ銚子塚古墳は、遠江を治めた王の墓と目される大型前方後円墳で、墳丘の規模も副葬の格も別格である。その近くの米塚古墳群は、より小型の古墳が群れをなして残る。大型の盟主墓と、それを囲む中小の古墳という構図が、台地の西縁には描けている。

澄水山古墳は、その構図を台地の反対側、南東の縁に置き直して見るための一点になる。盟主墓群から離れた場所に、帆立貝式の中規模古墳が単独で残るという事実は、当時の有力者たちの墓が台地のあちこちに分散して営まれた可能性を示す。台地全体を一枚の地図として広げ、どこにどの規模の古墳があるかを並べると、磐田の古墳時代の社会の輪郭が立ちあがってくる。

図解で見る関係

磐田原台地(縁辺に古墳が集まる) 天竜川と太田川(今之浦)に挟まれた洪積台地 台地 西縁 銚子塚・米塚など 大型王墓と古墳群 澄水山古墳 台地 南東縁・帆立貝式 市指定・史跡 中泉のまち 代官所・鉄道・市街地 磐田農業高校が立地 「澄水」=湧水か 地名と地形からの推定

年表として読む

時期見るポイントこのページでの扱い
古墳時代(5世紀前半とみられる)台地の南東縁に帆立貝式の墳丘が築かれる。盟主墓群とは別の場所・規模の古墳として、当時の社会の層を読む。
後世(呼称の成立)墳丘の小山が「澄水山」と呼ばれるようになる。湧水・地形に由来する可能性を推定として示し、断定はしない。
江戸〜近代中泉に代官所が置かれ、のち鉄道・市街地が広がる。古墳が市街地に近い縁辺に残った経緯として読む。
近代以降磐田農業高校の校地となり墳丘が保たれる。学校用地化が保存に働いた可能性を考える。
現在市指定史跡として、まち歩き・学習の対象。校地内のため見学ルールを尊重し、現地確認と資料照合で更新する。

まち歩きでの読み方

澄水山古墳を訪ねるなら、まず磐田原台地が中泉のまちへ落ちていく地形を体で確かめたい。駅周辺の平場から少し歩いて、ゆるやかな高みに上がっていく感覚があれば、それが台地の縁である。墳丘そのものより先に、なぜこの高みが選ばれたのかという問いを持って歩くと、古墳の立地が腑に落ちてくる。

古墳は磐田農業高校の校地内にあるため、見学は学校の管理に従う必要がある。塀越しに墳丘の高まりや木立を望む程度にとどめ、構内への無断の立ち入りは避けたい。あわせて、台地の縁の裾に水の気配がないか——側溝の流れや、低地へ向かう傾斜を確かめると、「澄水」という名の手がかりに近づけるかもしれない。文化財を読むとは、見に行くことだけでなく、守られてきた条件と土地の理屈を尊重することでもある。

関連リンク

参考資料・注記

確認状況:指定区分(市指定)・種別(史跡)・所在地(磐田市中泉)・古墳時代という年代は資料で確認した。指定年月日については確実な月日を磐田市公式で確認できなかったため「磐田市公式で要確認」とし、創作はしていない。年代の「5世紀前半」、墳丘の「帆立貝式・全長約55メートル」、所有者・管理者、「澄水」の由来、磐田農業高校との関係は今後あらためて磐田市公式・現地で照合し、確定したものから本文と公式URLを差し替える。なお一部の二次資料では所在地を「磐田市大久保中島」と記すものがあり、表記の異同についても確認を要する。