この記事の要点
- 中泉は磐田原台地の西の低地に開けた町で、地名のとおり水(泉・湧水)に恵まれた立地だった。
- 徳川家康が中泉御殿(天正15年=1587頃築造とされる)を置き、のちに中泉代官所(中泉陣屋)が天領を治める行政の拠点となった。
- 幕末の代官・林鶴梁(はやしかくりょう)、明治2年(1869)に初代中泉奉行となった前島密(まえじまひそか)など、近世・近代の人物が中泉にゆかりを持つ。
- 1889年(明治22)、東海道線の中泉駅が開業。これが現在の磐田駅であり、まちの重心を低地・中泉側へ動かした。
- 御殿町・栄町・田町といった地名や、隣接する国府台・二之宮の地名は、中泉の歴史を今に伝えている。
中泉とは ── 場所と地名
現在の磐田市中央部、磐田駅の北側を中心とする地区名・地名。江戸時代には幕府直轄地(天領)を治める代官所が置かれた行政の町で、現在は石原町・御殿・栄町・田町・中町・西町などの町名が「中泉」を冠して残る。
中泉は、磐田原台地の西側、天竜川寄りの低地に位置する。事実として、台地の南端に発達した宿場町・見付とは、わずかな距離をへだてて隣り合いながら、地形も役割も異なる町として歩んできた。見付が台地の上の「道の町」だとすれば、中泉は台地の下の「水の町」「政(まつりごと)の町」である。
「泉」という字が示すとおり、この一帯はもともと湧水や浅い地下水に恵まれた土地だったと考えられる。解釈になるが、「中泉」という地名そのものが、台地のへりから水のしみ出す低地という地形条件を映していると読める。確かな水と平らな土地は、人や物が集まり、屋敷や役所を構えるのに適していた。中泉が早くから町として開けた背景には、この地形の有利さがあったと考えられる。
本記事は、この中泉という町が「御殿の町」「代官所の町」「鉄道駅の町」へと姿を変えていく流れを、地形と年表の両面から整理するものである。なお、中泉代官所そのものの機構や歴代代官の詳細は、既存の解説ページ 中泉代官所 に詳しい。本記事はそれと重複させず、あくまで「中泉という土地・地名の成り立ち」に着地する。
台地と低地 ── 中泉の地形を読む
中泉を理解する出発点は地形である。磐田市の中央には磐田原台地が南北にのびており、その西の縁が、ゆるやかに天竜川の沖積低地へと下っていく。中泉は、ちょうどこの「台地から低地へ移り変わるへり」に開けた町である。
磐田市の中央を南北に占める洪積台地。東は太田川低地、西は天竜川低地に挟まれる。台地の上は水利に乏しく畑作・茶などに向き、台地のへりや低地は湧水・地下水に恵まれて集落が発達した。見付は台地の南端、中泉はその西の低地にあたる。
事実として、台地の上は水を得にくく、古くは原野や畑地が広がっていた。これに対し、台地のへりから水がしみ出す低地は、田を開き、人が住むのに適していた。中泉が「泉」を名に持つこと、隣接して「今之浦(いまのうら)」という水辺由来とみられる地名があることは、この一帯が水と深く結びついた土地であることを示している。
これは推測の域を出ないが、低地にあって平らな用地を確保しやすかったことが、のちに御殿や代官所、そして広い敷地を要する鉄道駅が中泉側に置かれた一因とも考えられる。地形は、人がどこに何を建てるかを静かに方向づける。中泉の歴史は、その好例の一つといえる。
中泉御殿 ── 家康が置いた屋敷
中泉の名を歴史の表舞台に押し上げたのが、徳川家康による「中泉御殿」の造営である。
徳川家康がこの地に設けた御殿(将軍・大名級の宿泊・休息のための屋敷)。天正15年(1587)頃の築造とされる。敷地は一万坪ともいわれる広大なもので、家康の鷹狩りや東海道往来の際の拠点となったと伝わる。寛文10年(1670)に廃止されたとされる。
事実として、家康は遠江・三河を本拠とした時期から、この地域を東西の往来と統治の要として重く見ていた。中泉御殿は、その家康が中泉という低地の町に置いた拠点であり、のちの中泉代官所による天領支配の素地となったと考えられる。
御殿の正確な規模や構造は、現存する遺構が限られるため確定が難しい。「敷地一万坪」という伝承も、数値の典拠については慎重に扱う必要がある。これは推測の域を出ないが、御殿が置かれたことで中泉には人と物が集まり、町としての骨格がこの時期に形づくられていったとみられる。御殿に近接する御殿・二之宮の一帯では発掘調査も行われており、その成果は既存ページ 御殿・二之宮遺跡 に紹介されている。
現在の磐田市中泉のうちに「御殿」を冠する町名が残る。中泉御殿の所在に由来すると考えられる地名で、屋敷が失われたのちも、その記憶が地名として土地に刻まれた一例である。
天領を治める ── 中泉代官所
御殿が廃された後も、中泉は行政の町としての性格を保ち続けた。その中核が「中泉代官所(中泉陣屋)」である。
幕府直轄地(天領)を治めるために中泉に置かれた代官の役所。陣屋とも呼ばれる。遠江各地に散在する天領の年貢徴収・治水・訴訟などを管轄し、広い範囲に行政の網をかけた。詳細は既存ページ「中泉代官所」を参照。
江戸幕府が直接支配した土地(幕府直轄領)の通称。大名領とは別に、代官が幕府に代わって統治した。中泉代官所は、この天領を遠江で束ねる役所だった。
事実として、中泉は宿場町・見付のような街道の華やかさを持つ町ではなかったが、天領を管轄する代官所が置かれたことで、近世を通じて遠江西部の行政上の要であり続けた。年貢や治水をめぐる文書が集まり、人が出入りし、町は「政(まつりごと)の中心」としての性格を強めていった。
幕末には、漢学者・能吏として知られる林鶴梁(はやしかくりょう)が中泉代官を務めた時期があり、安政の大地震(嘉永・安政年間)への対応にあたったと伝わる。解釈になるが、災害時の救済や復旧に代官所が果たした役割は、中泉が単なる徴税の拠点ではなく、地域の暮らしを支える行政機構でもあったことを示している。
前島密と、近代への橋渡し
幕末から明治への転換期、中泉は近代郵便の父として知られる人物と接点を持つ。
日本の近代郵便制度を築いた官僚(1835〜1919)。明治2年(1869)1月、初代の中泉奉行に任じられたとされる。中泉では救院(窮民救済の施設)の設置など、地域行政に携わったと伝わる。のちに郵便制度の創設を主導した。
事実として、前島密が中泉に関わったのは、幕藩体制から新政府へと統治が大きく組み替えられる時期にあたる。中泉奉行という役は、近世の代官所が担っていた天領支配の機能を、新政府が引き継ぎ整理していく過渡的な役職だったと考えられる。解釈になるが、前島が中泉で取り組んだとされる救院(中泉救院)の設置は、災害や困窮への対応という、代官所以来の地域行政の延長線上にあるものと読める。
こうして中泉は、近世の天領支配から近代の地方行政へと、行政の町としての役割を途切れさせずに引き継いでいった。御殿・代官所・奉行という肩書きは変わっても、「中泉が行政の拠点である」という土地の性格は、近世から近代へと持ち越されたのである。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1587頃 (天正15) | 徳川家康が中泉御殿を築いたとされる。中泉が東西往来・統治の拠点に。 |
| 江戸前期〜 | 天領を治める中泉代官所(中泉陣屋)が遠江西部の行政を担う。 |
| 1670 (寛文10) | 中泉御殿が廃止されたとされる。 |
| 幕末 | 代官・林鶴梁が安政地震への対応にあたったと伝わる。 |
| 1869 (明治2) | 前島密が初代中泉奉行に。中泉救院の設置などに関与したと伝わる。 |
| 1889 (明治22) | 町村制で中泉町成立(豊田郡中泉町+山名郡二ノ宮村)。同年、東海道線中泉駅=現・磐田駅が開業。 |
| 1896 (明治29) | 郡の再編で中泉町の所属が豊田郡から磐田郡へ。 |
| 1929 (昭和4) | 中泉町が梅原村を編入。 |
| 1940 (昭和15) | 見付町・中泉町・西貝村・天竜村が合併し磐田町発足。 |
中泉駅 ── まちの重心が動いた日
近代の中泉にとって決定的だったのが、鉄道駅の開業である。
1889年(明治22)、東海道線の駅として中泉に開業した駅。これが現在の磐田駅の前身であり、駅名は1942年(昭和17)に「磐田駅」へ改称されたとされる。街道の宿場・見付ではなく、低地の中泉に駅が置かれたことが、まちの重心を大きく動かした。
事実として、東海道線の駅は台地の上の見付宿ではなく、その西の低地・中泉に設けられた。広い用地を必要とする鉄道にとって、平らな低地である中泉は条件がよかったと考えられる。駅の開業をきっかけに、商業や物流の拠点が駅周辺へ集まり、近世以来の「政の町」中泉は、近代の「駅の町」へと性格を重ねていった。
この駅用地の確保には、中泉の素封家(資産家)であった青山宙平(あおやまちゅうへい)が用地を提供したと伝わる。解釈になるが、地元有力者の協力が駅の立地を後押ししたとすれば、中泉に駅が置かれたのは地形条件だけでなく、地域の人の動きが重なった結果だったと読める。
御殿が置かれ、代官所が置かれ、そして駅が置かれた。中泉という低地は、時代ごとに「いちばん大事な施設」を引き寄せ続けてきた。
駅の開業は、見付と中泉という二つの中心の関係をも変えていった。古代以来の中心だった台地の見付に対し、低地の中泉は鉄道とともに新しい市街の核となり、やがて両者は1940年の合併で一つの「磐田町」となる。事実として、現在の磐田市役所は中泉に隣接する国府台に置かれ、駅は中泉にある。近代以降のまちの重心が中泉側へ移ったことを、現在の地理がそのまま物語っている。
中泉ゆかりの人びと
中泉という町には、近世から近代にかけて性格の異なる人物がかかわった。それぞれの肩書きは、中泉が果たした役割の変化を映している。
| 人物 | 時期 | 中泉との関わり |
|---|---|---|
| 徳川家康 | 戦国〜江戸初期 | 中泉御殿(1587頃)を築き、この地を東西往来・統治の拠点とした。 |
| 林鶴梁 (はやしかくりょう) | 幕末 | 中泉代官を務めたとされ、安政地震への対応にあたったと伝わる。漢学者としても知られる。 |
| 前島密 (まえじまひそか) | 明治初期 | 明治2年(1869)初代中泉奉行。中泉救院の設置などに関与したと伝わる。のちに近代郵便制度を創設。 |
| 青山宙平 (あおやまちゅうへい) | 明治期 | 中泉の素封家。中泉駅(現・磐田駅)の用地を提供したと伝わる。 |
解釈になるが、御殿を築いた家康、天領を治めた代官、近代行政への橋渡しをした前島、そして駅をもたらした地元有力者――この四人を並べると、中泉という町が「統治の拠点」という性格を保ちながら、近世から近代へと姿を変えていった筋道が見えてくる。
中泉の地名は、いまどこに残るか
町としての中泉の記憶は、現在の地名のなかに濃く残っている。事実として、磐田駅周辺の町名の多くは、中泉の歴史と結びついている。
| 現在の地名 | 区分 | 由来・関わり(推定を含む) |
|---|---|---|
| 中泉(御殿・栄町・田町・中町・西町・石原町ほか) | 中泉地区 | 中泉町の中心。「御殿」は中泉御殿に由来すると考えられる。 |
| 国府台 (こうのだい) | 中泉地区 | 古代遠江国府にちなむ地名とされる。現在は磐田市役所などが立地。 |
| 二之宮 (にのみや) | 中泉地区 | もと山名郡二ノ宮村。1889年に中泉町と合併した。 |
| 今之浦 (いまのうら) | 今之浦地区 | 水辺・浦に由来するとみられる地名。台地と低地の境を流れる今之浦川にちなむ。 |
| 大泉町 (おおいずみちょう) | 中泉地区 | 「泉」を含む地名。中泉と同様、水に恵まれた低地の性格をうかがわせる。 |
解釈になるが、「御殿」「泉」「浦」といった文字をたどると、消えた屋敷や、湧き出す水、かつての水辺といった、土地の記憶が地名に折りたたまれているのが分かる。ただし地名の由来には諸説あり、断定はできない。とりわけ国府台と二之宮は、中泉と一体でありながら独自の来歴を持つため、本連載では別の回で扱う(第三回・二之宮、第八回・国府台)。
「事実・解釈・推測」を分けて読む
中泉の歴史には、確かな記録と、伝承として語り継がれてきたものが混在している。本記事の立場を整理しておく。
三つの区別(本記事の場合)
- 事実:中泉が低地に位置すること、中泉代官所が天領を治めたこと、1889年の中泉駅開業(=現・磐田駅)、現在の町名。資料・地理で確認できる。
- 解釈:地形が御殿・代官所・駅の立地を方向づけたという見立て、四人の人物に中泉の役割の変化を読むこと。事実にもとづく筆者の読み。
- 推測:中泉御殿の正確な規模(一万坪伝承)や構造、地名の由来の細部、駅用地提供の経緯。伝承を含み、今後の調査を要する。
よくある疑問(FAQ)
水(泉)に由来すると考えられます。中泉は磐田原台地の西の低地にあり、台地のへりから湧き出す水に恵まれた土地でした。「泉」の字や、近隣の「大泉町」「今之浦」といった水辺由来とみられる地名が、この一帯と水との結びつきを示しています。ただし由来には諸説があり、断定はできません。
同じ駅です。1889年(明治22)に東海道線の「中泉駅」として開業し、のちに「磐田駅」へ改称されたとされます(改称は1942年とされます)。街道の宿場・見付ではなく低地の中泉に駅が置かれたことが、まちの重心を中泉側へ動かしました。
屋敷そのものは残っていません。中泉御殿は天正15年(1587)頃に築かれ、寛文10年(1670)に廃止されたとされます。現在は「御殿」という町名や、御殿・二之宮一帯の遺跡(発掘調査の成果)などに、その記憶が伝えられています。
明治初期の行政の組み替えのなかでです。前島密は明治2年(1869)に初代中泉奉行に任じられたとされます。これは、近世の中泉代官所が担った天領支配の機能を、新政府が引き継ぎ整理していく過渡期の役職でした。中泉では救院の設置などに関与したと伝わります。
地形も役割も異なります。見付は磐田原台地の南端にある東海道の宿場町(道の町)、中泉はその西の低地にある天領の代官所の町(政の町)でした。古代〜江戸は見付が中心でしたが、近代に鉄道駅が中泉に置かれてからは、商業・行政の重心が中泉側へ移っていきました。