失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語旧豊田町の地名 / 池田荘と葛巻

旧豊田町を歩く 其の三 | 中世荘園と地名

池田荘と「葛巻」
── 地名に残る中世の荘園

小立野・西之島に見える「葛巻」という小さな地名から、松尾大社領・池田荘の記憶へ近づく。天竜川左岸の土地が、都の社寺領とつながっていた時代を、断定を避けながら読み解く。

旧豊田町の地名を読んでいると、ふだんの生活圏のなかに、思いがけず中世の名が顔を出すことがある。「葛巻」もその一つである。『ふるさと 豊田町地名地図』では、小立野・西之島の地名として確認され、摘要には池田荘や松尾大社の古文書との関係が示されている。

この記事で分けて扱うこと

池田荘とは何か

池田荘は、遠江国豊田郡(旧くは磐田郡域とも語られる)に存在したと伝えられる中世の荘園である。荘園とは、貴族・寺社・有力者などが権利を持った土地のまとまりで、年貢や産物の徴収、支配権の重なりを通じて、中世社会を支えた制度だった。私領を開発した在地の者が、税の負担を逃れ、あるいは権利を守るために、都の有力な社寺へ土地を寄せる――そうした「寄進」の積み重ねが、各地に荘園を生んでいった。池田荘もまた、そうした寄進地系の荘園として語られる。

歴史地名資料や百科事典の解説によれば、池田荘は一一七一年(承安元年)の立券文によって、おおむね十二世紀前期に成立したと伝えられる。立券とは、土地の四至(範囲)や田畠の面積を確定し、荘園として正式に立てる手続きをいう。つまり池田荘は、源平の争乱や鎌倉幕府の成立に先立つ平安時代の末に、すでに文書の上で姿をあらわしていた土地だったことになる。

池田の名は、天竜川の渡し場として近世以降にもよく知られる。中世から続いた東海道の池田宿は、川越えの拠点としてにぎわい、遊女の伝承を生んだことでも知られる。しかしその前段階として、池田周辺が中世の荘園名として記録されていたことは重要である。つまり池田は、江戸時代の東海道の渡し場である以前に、都の権門と結びついた土地だった可能性を持つ。渡し場としての池田と、荘園としての池田は、時代を異にしながら同じ地に重なっている。

松尾大社領という視点

歴史地名資料や郷土資料では、池田荘は京都の松尾大社(松尾神社)の社領として語られる。松尾大社は山城国葛野郡、現在の京都市西京区嵐山に鎮座する古代以来の有力社であり、秦氏の氏神を起源とすると伝えられ、酒造の神、水の神としての信仰でも広く知られる。その社領が、はるか東国・遠江の天竜川下流域にまで及んでいた――この事実は、現在の地域感覚だけで土地を見ていては見落としやすい。

遠江の天竜川左岸にある土地が、京都の社領として結びつくのは、けっして例外ではない。中世の社寺は、各地に散在する荘園からの年貢によって祭祀や経営を支えており、遠隔地の荘園を数多く抱えていた。池田荘もまた、都の社のための年貢を生み出す土地として、文書の網の目に組み込まれていたのである。

中世の土地は、近代以降の市町村境とは違う論理で動いていた。川の渡し、年貢の輸送、用水、寺社への寄進、在地の領主。そうした権利と交通の重なりの中で、池田荘は成立し、維持され、やがて記憶として地名や文書に残ったと考えられる。京都の社と遠江の田畠を結ぶ見えない糸を想像することは、いまの磐田の風景に、もう一つの時間の層を重ねて見ることでもある。

池田天竜川の渡し場として知られる地名。中世荘園の名称としても扱われ、近世の交通史へ連続する。
小立野葛巻の地名が確認される地域の一つ。台地と低地の境目を意識して読む必要がある。
西之島「島」を含む地名が示すように、川の低地・微高地との関係を考えたい地域。
葛巻池田荘・松尾大社関係の古文書との接点が郷土資料に示される小地名。範囲は今後の確認課題。

文書が伝える池田荘の大きさ

池田荘について興味深いのは、その規模が比較的具体的に伝えられている点である。歴史地名資料や百科事典の解説によれば、立券のころの池田荘には、惣田数(田の総面積)三八五町四反余、畠一六四町三反余といった数字が記録されていたという。一町はおよそ一ヘクタール前後にあたるとされるから、田畠を合わせれば相当な広がりを持つ荘園だったことになる。研究のなかには、その範囲を天竜川下流域の二十平方キロメートルほどに見積もる見方もある。

もっとも、これらの数値は中世の文書に基づく古い記録であり、現在の正確な面積や境界をそのまま示すものではない。当時の「町」「反」の換算には幅があり、田畠のうちどれだけが実際に耕作されていたかも一様ではない。ここでは、池田荘が小さな一村にとどまらない、広域の荘園として認識されていたという「規模感」を受け取っておきたい。葛巻のような小地名は、その広い荘域のなかの、ごく一点として位置づけられる。

なぜ「葛巻」が気になるのか

葛巻という地名は、ひと目で由来がわかる名ではない。植物の葛に由来するのか、地形の巻き込みを示すのか、あるいは人名・屋号・耕地名に由来するのかは、ここでは断定できない。しかし重要なのは、地名資料の摘要がこの名を池田荘・松尾大社の文書と結びつけている点である。

地名は、しばしば行政の大きな名前よりも長く残る。村名が変わり、町名が変わっても、小字や通称地名は、田畑の呼び名、家々の記憶、古い書付のなかで生き延びる。葛巻もまた、そうした小さな名の一つとして、中世の土地支配の影を今に伝えているのかもしれない。

川が動く土地で、荘園をどう読むか

池田荘を現在の地図にそのまま塗り分けることには慎重でありたい。天竜川左岸は、河道の変化、堤の築造、新田開発、村境の変更を繰り返してきた地域である。中世の地名と近代の小字、現在の町名を単純に重ねると、かえって誤解を生む。

このことは、池田荘そのものの歴史にもあらわれている。歴史地名資料によれば、池田荘ははじめ天竜川を東の境としていたが、河道がしだいに西へ移っていったため、のちには川の両岸にまたがる荘園になっていったと伝えられる。川が動けば、田畠も村も、そして荘園の境も動く。境界をめぐっては、隣り合う荘園や御厨とのあいだに相論(争い)が生じたことも記録されている。土地が固定されていない地域で、人々がそれでも境を定め、年貢を計り、書付に残そうとした――その営みの跡が、池田荘という名に折りたたまれている。

だからこそ、地名を読むときには「この名が、どの時代の、どの資料に、どの範囲で現れるのか」を切り分ける必要がある。葛巻は中世荘園を証明する決定的な一点ではなく、池田荘を考えるための入口である。入口であるからこそ、地図・古文書・現地の地形を重ねて、慎重に追っていく価値がある。

歩くなら、どこを見るか

現地を歩くなら、まず池田の渡しの記憶を確認し、そこから小立野・西之島方面へ視線を移したい。川に近い低地、微妙に高い土地、古くからの道筋、用水や堤の痕跡。中世荘園の範囲は目に見えないが、土地の高低と水の向きは、今も歩くことで感じられる。

また、池田荘を単独で見るのではなく、池田の渡し天竜川がつくった村、流した村天竜川左岸の新田とあわせて読むと、川・道・荘園・新田が一つの流れとして見えてくる。

主な参考資料

旧豊田町特集へ池田の渡しを読む次:堤外と内郷堤

この記事について

本記事は地名資料・郷土史資料をもとに、史実・解釈・推測を分けて再構成した地域史コンテンツです。地名の範囲や由来には未確認の部分があり、追加資料により修正することがあります。