旧豊田町の北寄り、台地の縁を歩くと、川沿いの低地とは違う地名が目に入る。森下、森本、立野。水や新田の名ではなく、森と野の名である。そこには、田に開かれる前の土地、社寺の周辺、台地のふちの暮らしが見え隠れする。
旧豊田町は、現在の磐田市の北東部にあたる。明治の村々を経て、一九五五年に富岡村と井通村が合併して豊田村となり、一九七三年に町制を施いて豊田町、そして二〇〇五年に磐田市・竜洋町・福田町・豊岡村とともに新しい磐田市へと合併した。面積はおよそ二〇平方キロメートルほどの小さな町だったが、その地形は一様ではない。南に太田川の低地が広がり、北から西にかけては磐田原台地の縁がせり上がる。森下・森本・立野は、ちょうどその低地と台地が出会うあたりに位置している。だからこそ、川の名でも新田の名でもない、森と野の名がここに残ったのだと考えると、地名の手触りが少し具体的になってくる。
この記事の視点
- 「森」は、樹林そのものだけでなく、神社・寺・屋敷地・禁足地の記憶を含むことがある。
- 「野」は、耕地化される前の原野・草地・台地上の空間を示す可能性がある。
- 森下・森本・立野を、台地の縁と古い土地利用の地名として読む。
森下・森本の「森」
森下・森本という地名は、どちらも「森」を中心にした位置関係を示しているように読める。森の下、森の本。つまり、かつて人びとが共有していた目印としての森があり、その周囲に土地の名が付けられた可能性がある。
森は、単なる樹木の集まりではない。神社の鎮守の森、寺の境内林、屋敷林、古い墓地や塚の周辺。地域社会では、森は信仰・境界・記憶の場であった。森下・森本の名は、そうした古い目印の存在を考えさせる。
とりわけ平坦な低地や、見渡すかぎりの台地面では、ひとかたまりの森が遠くからもよく見える。そうした森は、田の境を示す目印になり、村と村のあいだの境界の役割を担い、ときには天候や方角を読むための基準点にもなった。地名としての「森」は、こうした共有された目印が、いつしか土地そのものの呼び名へと移っていった痕跡だと読むことができる。森下・森本という対になりそうな名が近くに並んで残っているのも、ひとつの森を軸にして、その下手・その本元という具合に周囲の土地が呼び分けられていった名残ではないか、と想像させる。なお、その森が具体的にどの社寺や林を指したのかは、現在の地形からは断定しにくく、慎重な確認を要する。
立野という名
立野は、野が立つ、あるいは開けた野を示す地名として読める。台地の縁や微高地にある野は、低地の田とは違う使われ方をした。草刈り、薪取り、畑、放牧、道の余白。野は、村の暮らしを支える共有的な空間だった可能性がある。
また「立」は、地形の高まりや境界、目立つ場所を連想させる。立野の名が具体的に何を指すかは慎重な確認が必要だが、少なくとも低地の水田地名とは違う土地感覚を持つ名である。
一般に「立野」という語には、農民の自由な入会利用を禁じた原野、すなわち採草地や狩猟地、あるいは造林に適した土地として領主の直轄に置かれた野を指す用法があると説明される。各地の立野の地名には、そうした共有地・管理地としての野の記憶を背景に持つものが少なくないという。旧豊田町の立野がこの意味に直接つながるかどうかは、地元の土地台帳や古文書による裏付けが必要で、ここで断定はできない。ただ、台地の縁に「野」の名が残るという事実そのものが、低地の水田とは別の論理で使われた土地が確かにあったことを示している。草を刈り、薪を取り、ときに畑や放牧に充てる――そうした半ば共有的な野の存在は、近世の村々にとって珍しいものではなかった。
| 森下 | 森を基準にした位置関係を示す可能性。鎮守・寺跡・屋敷林との関係を見たい。 |
|---|---|
| 森本 | 森の根元・中心側を思わせる名。古い集落の目印としての森を想像させる。 |
| 立野 | 台地や野の土地利用を示す可能性。低地の田とは異なる空間として読む。 |
| 枇杷首 | 身体部位を含むような地名は、地形のくびれや端を示す場合がある。由来は要確認。 |
寺跡と地名
旧豊田町の地名資料には、寺跡や堂に関わる摘要が見える地域がある。寺がなくなっても、寺前、寺屋敷、堂の名は残る。建物は失われても、地名はその場所が特別な意味を持っていたことを伝える。
森下・森本・立野を歩くときも、神社や寺、墓地、古い道の位置をあわせて見るとよい。地名は、地形だけでなく、信仰の記憶とも結びついている。一本の森が鎮守の杜であったなら、その近くには参道や石塔、講の集まる堂があったかもしれない。建物が早くに失われても、土地の名と、わずかな高まりや木立が、その場所の由緒を静かに語り続けることがある。
とはいえ、地名から信仰や寺跡を読むときには、慎重さも要る。同じ「森」でも、社寺とは関係のない屋敷林や自然林に由来することもあり、「寺」を含む地名が必ずしも実在した寺院を指すとはかぎらない。森下・森本・立野についても、現時点で具体的な寺社の所在を断定できる材料はそろっていない。ここで述べられるのは、あくまで地名の型が示唆する可能性であって、確かめるべきはこれからである。
台地と低地が出会う場所
旧豊田町を地形の側から見ると、その骨格は南の太田川低地と、北西にせり上がる磐田原台地のふたつでできている。磐田原台地は、天竜川と太田川の流れを分ける分水界にあたる高まりで、北側では段丘面の高度が百三十メートルほどに達し、南へ向かうにつれて低くなり、やがて十メートルに満たない低地へとなだらかにつながっていく。台地は礫を多く含む地層から成り、平地の側は川がもたらしたシルトや粘土の土でできている。つまり、土の質も、水の得やすさも、台地と低地ではまるで違っていた。
この違いが、土地の使い方と地名のあり方を分けたと考えられる。水を引きやすい低地は、早くから水田として開かれ、その営みは堤・新田・島といった水の地名を残した。一方、水を引きにくい台地の縁では、田にしにくい原や野、林がそのまま残されやすく、人びとはそこを採草や薪取り、畑として使った。森下・森本・立野が、ちょうどこの台地と低地の境目あたりに位置していることは偶然ではないだろう。境界の土地には、両方の暮らしの記憶が折り重なって残る。
台地の縁に残る古い土地勘
川沿いの低地では、堤外・新田・島といった水に関わる地名が目立つ。これに対し、台地の縁では、森、野、山、原、久保のような地名が増える。これは、土地の使い方が違っていたからである。
森下・森本・立野は、旧豊田町が単なる低地の町ではなく、台地と低地の両方を持つ地域だったことを教えてくれる。水の記憶だけでなく、森と野の記憶もあわせて読むことで、豊田地区の土地の厚みが見えてくる。