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磐田物語豊田地区 / 富丘・東原

豊田地区の記憶 第十五回 | 台地と土地利用

富丘・東原
── 台地に開けた「原」と「丘」のまち

旧豊田町北部の台地に並ぶ、富丘、東原、高見丘。低地の水田地名とは違う「丘」「原」「久保」「山」の名から、台地の土地利用を読む。

旧豊田町を天竜川沿いの低地だけで見ると、地域の半分を見落としてしまう。北側には、富丘・東原・高見丘のように、台地の高まりを感じさせる地名が並ぶ。そこでは、川ではなく、原・丘・山・久保といった言葉が土地を語っている。同じ町域でありながら、低地と台地とでは地名の語彙そのものが入れ替わる。その境目を歩いてみると、足もとの土の乾き具合や、見渡せる視界の広さまでが変わってくるのに気づくはずである。

本稿の要点

磐田原台地という土台

富丘・東原・高見丘の名を読むには、まずその下に横たわる磐田原台地の姿を押さえておきたい。磐田原は、天竜川の東岸に広がる洪積台地で、標高はおよそ十〜百二十メートル、東西約四キロ・南北約十三キロにわたって細長く伸びている。天竜川の西岸にある三方原台地と同じ時期に隆起してできたものと考えられており、低地よりも一段高い「もう一つの磐田」を形づくっている。旧豊田町の北部は、この台地の南東縁にあたる。

台地の最大の特徴は、水の得にくさにある。地下水面が深いところにあるため、井戸を掘っても容易には水に届かず、用水を引く工夫も難しかった。そのため磐田原は、低地に比べて開発・開拓が遅れた土地として知られる。現在は磐田用水などの整備によって農業が営まれているが、近代以前の台地上は、水を必要としない畑作や雑木林、草地が大きな面積を占めていたとみられる。茶・葉タバコ・サツマイモといった、乾いた台地に向く作物の栽培がさかんだったことも、こうした土地条件と無縁ではない。

つまり、台地に並ぶ「原」や「丘」の地名は、単なる景観の描写ではなく、水に乏しい土地をどう使ってきたかという暮らしの履歴をも背負っている。低地の水田地名が「水をどう扱うか」を語るのに対し、台地の地名は「水のない土地でどう生きるか」を語っているのである。

富丘という名

富丘は、字面から見ても豊かな丘を思わせる名である。現在は磐田市富丘として町名に用いられ、旧豊田町の北部、磐田原台地の縁に位置している。もちろん、近代以降の命名や表記の変化も考える必要があり、「富」の字がいつ、どのような願いを込めて選ばれたのかは慎重に確かめたいが、「丘」という語が地域のイメージを形づくっていることは確かである。低地の水田地帯と比べ、台地上は水に乏しく、畑作・茶・雑木林など、別の土地利用が広がりやすかった。

丘の土地は、洪水には比較的強い一方、水を得るには工夫が必要だった。雨水は地中に深く吸い込まれ、谷筋へ流れ去ってしまう。だからこそ、人びとは溜め池や深井戸に頼り、限られた水を分け合いながら畑を耕してきたと考えられる。水の多い低地と、水に乏しい台地。この対比が、旧豊田町の地名の大きな骨格をつくっている。

東原という名

東原の「原」は、広く開けた土地を思わせる。原は、田ではない。水田にする前の草地、畑、台地上の空間、あるいは開発前の広がりを指すことがある。地形の高低を細かく刻む低地の地名に対し、「原」は土地のまとまりや広がりそのものを名づける言葉であり、いかにも台地らしい命名だといえる。東原という名は、東側に開けた原、あるいは地域の中で東に位置する原として理解できるが、具体的な由来は今後の確認が必要であり、ここでは推定の域を出ない。

原の地名は、近代以降の開発によって大きく姿を変えることが多い。かつて見渡すかぎりの草地や畑だった場所も、道路が通り、住宅が建ち、工場や学校が置かれると、原野の面影は急速に薄れていく。水害を受けにくく、まとまった平坦地を確保しやすい台地は、宅地や産業用地として格好の場所であり、こうした転換は磐田原台地のあちこちで進んできた。それでも、開発で景観が一変したあとにも、地名の中には開発以前の土地の姿がひっそりと残る。「原」の一字は、住宅地の表札の上で、かつての広がりを今に伝える小さな手がかりである。

台地・丘陵地に関連する主な地名要素
地名 特徴と土地利用の履歴
富丘 丘の語を含む地名。台地上の土地利用、住宅地化、畑作の履歴とあわせて読む。
東原 原の語を含む地名。開けた台地・畑地・草地の記憶を想像させる。
高見丘 見晴らしや高まりを感じさせる名。台地の縁の視界と関係づけて読みたい。
久保 台地内のくぼ地や谷状地形を示す場合がある。水の集まりやすさと関係することがある。

低地の地名と比べる

低地には、島、堤外、新田、川原といった水に関わる地名が多い。天竜川の氾濫原に開かれたこれらの土地では、川の流れや堤防、新たに開いた田が、そのまま地名になった。これに対し、台地には、原、丘、山、久保といった地形の高低や開け方を示す地名が目立つ。同じ旧豊田町の中でありながら、低地の地名は「水」を、台地の地名は「地形」を主語にしているといってよい。この違いは、そのまま地域の暮らし方の違いでもある。

とりわけ「久保」は、台地の地名を読むうえで見落とせない。久保は、台地の表面にできた浅いくぼ地や谷状の地形を指すことがあり、まわりより一段低いぶん、水や湿り気が集まりやすい場所だったと考えられる。乾いた台地の上で、わずかに水の恵みを得られる窪地は、人の営みにとって貴重な土地だったはずである。丘や原の高みと、久保の低み――台地の内側にも、こうした小さな高低の物語が畳み込まれている。

低地では水をどう避け、どう引くかが課題だった。台地では水をどう得るか、乾いた土地をどう使うかが課題だった。旧豊田町の地名は、この二つの課題を一つの町域の中に抱えている。低地と台地、二つの異なる土地条件を併せもつことこそ、この地域の地名を読む面白さでもある。

台地の開発と現在のまち

富丘・東原のような台地の土地は、近代以降、道路や宅地、工業用地として利用されやすくなった。水害を受けにくく、比較的まとまった土地を確保しやすいからである。かつて水の得にくさゆえに開発が遅れていた台地は、上水道や用水、自動車交通の発達によって、その弱点をむしろ強みへと転じていった。広く平らで地盤の安定した土地は、新しい住宅地や学校、工場を迎え入れるのに適していたのである。かつての原や畑が、現代の住宅地や施設に変わっていく流れは、磐田原台地全体に共通する。

その結果、富丘や高見丘といった「丘」を冠する一帯は、いまでは新興住宅地としての顔をもつようになった。区画の整った街路に新しい家並みが続く風景からは、ここがかつて水に乏しい原野や畑地であったことは、にわかには想像しにくい。だからこそ、現在の風景だけではわからない土地の履歴を、地名から思い出したい。富丘・東原の名は、旧豊田町が川の低地だけではなく、台地を含む複合的な地域だったこと、そして人びとが乾いた高みの土地と長く向き合ってきたことを、静かに伝えている。

主な参考資料

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