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磐田物語豊田地区 / 金原明善と天竜川治水の足跡

豊田地区の記憶 第十八回 | 暮らし

金原明善と天竜川治水の足跡 ── 「暴れ天竜」に挑んだ治水開拓者と森林保護の思想

「暴れ天竜」と恐れられた大河の治水に生涯と全財産を捧げた「金原明善」。上流部の植林活動や近代土木技術の導入、そして彼が豊田地区をはじめとする天竜川流域に残した偉大な遺産を検証します。

天竜川は古くから「暴れ天竜」の名で恐れられ、ひとたび大雨が降れば肥沃な平野を一瞬にして泥海に変える脅威でした。この大河の治水に、私財をすべて投げ打って近代的な山林保護と治水事業を打ち立てたのが、地元・遠州が生んだ偉人「金原明善(きんぱらめいぜん)」です。

本稿の要点

大洪水との遭遇と治水家としての立志

金原明善は天保3年(1832年)、天竜川東岸に近い遠江国長上郡安間村(現在の浜松市中央区安間町)の資産家の家に生まれました。安間は天竜川がつくった広大な扇状地の末端、いわば「暴れ天竜」の鼻先に位置する村であり、明善の生家もまた、安政元年(1854年)の安政東海地震や万延元年(1860年)の大洪水によって幾度も傷め付けられたと伝わります。幼少期から天竜川の度重なる大氾濫による被災地の惨状を目にして育った明善は、「天竜川の治水なくして地域の繁栄も、国家の安定もない」との信念を抱くようになりました。

転機となったのは、明治元年(1868年)の大決壊でした。堤防が破れて流域一帯が泥海と化したとき、三十代半ばの明善は単身で京都へのぼり、新政府の民生局に治水の建白書を差し出します。そして自らも陣頭に立って復旧工事を指揮し、わずか四十日あまりで決壊箇所を仕上げたと伝えられています。郷土の安寧を願う一人の村役人の行動が、やがて国家の治水政策を動かす出発点となったのです。

明治に入り、本格的な治水活動を開始した明善は、まず政府に対して天竜川の近代的な堤防改修を強く働きかけました。明治7年(1874年)には地元の有志をまとめて「天竜川通堤防会社」を組織し、翌年これを「治河協力社(ちかきょうりょくしゃ)」へと改組して、官民協働による継続的な治水の母体を整えました。しかし、政府の予算が不足していることを知ると、自らの田畑や山林をすべて売却して事業資金に充てました。明治10年(1877年)には全財産を国家に献納する覚悟を固め、内務卿・大久保利通に直接謁見してその決意を訴えています。このとき差し出そうとした資産は六万三千円余に上り、生活に必要な分を差し引いた五万六千円余が治河協力社へと充てられたと記録されます。この無私の精神と行動力が、冷淡だった明治政府を動かし、オランダ人技師らによる西洋式の測量に基づいた、国家プロジェクトとしての天竜川改修事業が始動することになったのです。

上流の植林と森林保全への挑戦

金原明善の偉大さは、堤防を築くだけの局所的な治水にとどまらず、「流域全体を一つの生命体」として捉えた点にあります。明善は、「堤防の決壊を防ぐには、まず川に流れ込む水の量をコントロールせねばならない。そのためには、上流の山々を緑で満たし、天然のダムを作ることだ」という先進的な思想(森林保全思想)を唱えました。下流の堤防をいくら高く積み上げても、はげ山と化した上流から土砂と濁流が一気に押し寄せれば、堤はたちまち破られてしまう──現場で水害と向き合い続けた明善は、その因果を誰よりも深く理解していたのです。

彼は明治18年(1885年)ごろから天竜川上流の山岳地帯に本腰を入れ、官有地を借り受けて大規模な植林に着手しました。記録によれば、まず約759ヘクタールにおよぶ山地へスギ・ヒノキあわせて二百九十二万本もの苗木を植え、続いて千二百ヘクタール規模へと植栽を広げていったと伝えられます。気の遠くなるような本数の苗木を一本一本山に根づかせていく作業は、何十年も先の世代でなければ実を結ばない事業であり、明善自身は「植林に投じる金は、子孫のための貯金と同じである」という信念のもとにこれを続けました。この「天竜植林事業」は、後に銘木として知られる「天竜杉」を育てる礎となって日本の近代林業の先駆的なモデルとなり、同時に下流平野部への土砂流出を劇的に抑制し、長期的な防災力の向上に決定的な貢献を果たしました。

事業を支えた経営と「治河協力社」の仕組み

明善の治水・植林が一代限りの美談で終わらなかったのは、それを長く支える「資金の循環」を設計したからです。植林も堤防の維持も、完成までに数十年を要する事業であり、その間ずっと費用がかかり続けます。明善はそれを賄うために、治河協力社という組織を母体に据え、さらに自らさまざまな実業へ乗り出して、その利益を治水と山林へ還流させる仕組みをつくりあげました。

明治17年(1884年)、取引先の銀行が破綻して資金繰りに窮した際には、自ら金融機関(後の金原銀行へと発展する東里為換店)を立ち上げ、その収益をもって事業を支えました。さらに製材や山林経営にも手を広げ、晩年には出獄人を保護して更生を助ける授産事業など、社会事業にも私財を惜しみなく投じています。治水・植林・実業・社会奉仕──これらすべてが「流域に生きる人々の暮らしを守る」という一本の志でつながっていた点に、明善という人物の一貫した精神を見ることができます。

豊田地区へ届いた治水の恵み

金原明善が生まれ、最も精力的に動いたのは天竜川西岸の浜松側でしたが、その治水の恩恵は一つの川がつなぐ流域全体へと及びました。天竜川は河口へ向かうにつれて東西へと幾筋にも分かれ、旧豊田町をはじめとする東岸の低地もまた、上流から押し寄せる水と土砂の行方に運命を左右されてきた地でした。上流の山に木が根づいて保水力が高まり、流域全体で堤防が西洋式の測量に基づいて近代化されていけば、その効果は一つの堤や一つの村にとどまらず、下流域の田畑全体の安心へとつながっていきます。「治水は流域全体で考えなければ意味がない」という明善の思想は、まさに豊田地区のような下流の村々をも視野に入れたものだったのです。

近世以来、天竜川下流の村々は、竹や土を盛っただけの脆弱な堤と、たびたびの氾濫に悩まされ続けてきました。明善らが切り開いた近代的な治水と植林の枠組みは、こうした下流域の堤防強化や、排水路・樋門の整備といった後年の取り組みへと受け継がれ、洪水のたびに水底へ沈んでいた農地を、少しずつ安定した実りの土地へと変えていきました。明善が築いた治水の思想と基盤は、その後の豊田地区の安定的な米作りと産業の発展を支える土台の一つとなったのです。

「治水は水源にあり」──堤を高くするより先に上流の山に木を植えよと説いた明善の眼差しは、川がつなぐ流域すべての暮らしへ注がれていた。

明善は大正12年(1923年)、満九十一歳でその生涯を閉じました。生まれ故郷の安間町には、今も生家と明善記念館が残り、治水と植林に捧げた一生の足跡を静かに伝えています。一人の郷土の人物が抱いた「暴れ天竜を鎮めたい」という願いは、堤防や山林という目に見える形だけでなく、流域に生きる人々を水害から守ろうとする精神として、豊田地区を含む天竜川流域全体に長く受け継がれているのです。

主な参考資料

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