失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
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城之崎遺跡

磐田原台地南部に残された、弥生の住まいと古墳の記憶

城之崎遺跡は、磐田市西貝塚字西山、磐田原台地南部の丘陵上に所在する複合遺跡である。ここでは、弥生時代後期の竪穴住居跡と、古墳時代後期から終末期にかけての城之崎2号墳・3号墳が重なって確認された。後世の古墳の封土が、さらに古い弥生集落の痕跡を守ったという点で、城之崎遺跡は磐田の土地に積み重なる時間を考えるための重要な入口である。
この記事の立場本稿は、城之崎遺跡を単なる発掘成果の一覧として紹介するものではない。発掘調査報告書に基づいて確認できる事実を整理しつつ、地形、生活、生業、古墳築造、開発と記録保存の関係を、磐田物語の視点から読み直す。史実、資料からの推定、本稿の考察、今後の調査課題を分けて記述する。
弥生後期の高地性集落 古墳の封土が古い住居跡を守る 2号墳と3号墳 今之浦川・低地・潟湖への関係 城之崎遺跡で重なる三つの時間
写真を使わず、本文内で作成した概念図。城之崎遺跡では、後世の古墳の封土が、弥生時代後期の住居跡を守る保護層として働いた。高台の集落、低地の生業、古墳時代の墓域が一つの丘陵上で重なっている。
弥生の高地性集落海抜約14.5mから16m前後の丘陵上に、弥生時代後期の竪穴住居跡が確認された。
古墳が遺構を守った後世の古墳の封土が、弥生時代の生活面を侵食から守る保護層になった。
2号墳と3号墳の差礫床・刀子・鉄鏃を持つ2号墳と、二段葺石・装身具を持つ3号墳の違いから、在地首長層の変化を読む。
開発と記録保存開発に伴う緊急発掘が、失われるはずだった地域の記憶を記録に残した。

城之崎遺跡とは何か

城之崎遺跡は、静岡県磐田市西貝塚字西山に所在する。立地は磐田原台地南部、城之崎丘陵の一部で、標高はおおむね海抜14.5mから16m前後である。遺跡の性格は、弥生時代後期の集落跡と、古墳時代後期から終末期の古墳が重なる複合遺跡と整理できる。

発掘の契機は、ヤマハ発動機株式会社の従業員寮建設計画であった。調査は1970年10月19日から12月9日にかけて実施された緊急発掘調査で、当初は城之崎2号墳・3号墳の記録保存が中心であった。しかし調査の過程で、古墳の下層とその周辺から弥生時代後期の竪穴住居跡が確認された。

ここで重要なのは、開発を単純に「悪」と見ることではない。現状保存が困難な状況の中で、記録保存調査によって土地の履歴が残された。城之崎遺跡は、開発と文化財保護が衝突した場所であると同時に、記録によって地域の記憶が引き継がれた場所でもある。

城之崎遺跡の基本情報
所在地静岡県磐田市西貝塚字西山
地形磐田原台地南部、城之崎丘陵の舌状丘陵上
標高約14.5mから16m前後
主な時代弥生時代後期、古墳時代後期から終末期
主な遺構竪穴住居跡7軒、城之崎2号墳、城之崎3号墳
調査契機従業員寮建設計画に伴う緊急発掘調査
調査主体磐田市教育委員会を中心とする調査

磐田原台地南部の地形を読む

磐田原台地は、今之浦川やその支流によって開析され、複数の舌状丘陵に分かれる。城之崎丘陵は、低地、沖積平野、旧潟湖に近い高台であり、台地上の安全性と低地の水辺資源を結びつけやすい位置にあった。

弥生集落がなぜ低地ではなく高台に営まれたのかを考えるには、この地形を先に見る必要がある。高地性集落は、防御だけで説明されるものではない。見張り、避難、湿地環境への対応、低地の水田・潟湖・川を利用する生業など、複数の要因が重なった土地利用として読む必要がある。

城之崎遺跡 西貝塚 鎌田・鍬影遺跡 二之宮遺跡 松林山古墳 堂山古墳 城之崎丸山古墳 磐田原台地南部と水辺の関係 今之浦川 低地・沖積平野・旧潟湖を模式化
正確な地図ではなく、地形理解のための概念図である。城之崎遺跡は、台地上の居住と低地の生業を結びつける位置にある。

古墳の封土が弥生集落を守った

城之崎遺跡を読むうえで中心となるのは、古いものを新しいものが守ったという逆説である。丘陵上では自然侵食によって旧表土層が流失していた。しかし、2号墳・3号墳の墳丘直下では、旧表土層や弥生時代の遺構面が保存されていた。

後から築かれた古墳の封土は、本来は古墳の墳丘を構成する土である。ところが結果的には、その封土が弥生時代の住居跡をパックする保護層になった。城之崎遺跡では、古墳時代の墓が、さらに古い弥生時代の生活面を守ったことになる。

古墳封土が保護層になる 古墳封土 旧表土層 弥生時代の竪穴住居跡 侵食で失われた旧地表 侵食 地山層
城之崎遺跡では、丘陵上の多くの旧表土が流失した一方、古墳の墳丘直下だけは弥生時代の遺構面が保護された。後から築かれた古墳が、さらに古い暮らしの跡を守ったことになる。

弥生時代後期の高地性集落

報告書では、弥生時代後期の竪穴住居跡が7軒確認されている。北群に1号から4号住居跡、南群に5号から7号住居跡があり、土器型式から弥生時代後期後葉、欠山式期に位置づけられる。

住居跡には、柱穴、炉、側溝、入口施設、二段溝などが確認される。4号住居跡は先行する可能性があり、3号住居跡などが後続する可能性が指摘される。ここでは、住居跡の細かな形をただ列挙するのではなく、高台の生活空間がどのように営まれたのかを読むための手がかりとして整理する。

弥生住居跡一覧
住居跡位置形状推定床面積主な特徴本文での扱い
1号住居跡北群隅丸方形約15㎡4本柱、平地炉、薄手甕形土器弥生後期集落の基本例
2号住居跡北群方形約19㎡広口壺形土器、刷毛目壺形土器北群の一例
3号住居跡北群方形または隅丸方形約23㎡平地炉、壺形土器、台付甕形土器後続住居の可能性
4号住居跡北群隅丸方形約22㎡二段溝、垂木ピット、土錘先行住居・生業を示す重要遺構
5号住居跡南群方形約25㎡屋外炉の可能性、壺形土器最大級の住居跡
6号住居跡南群方形不明入口拡張施設、側溝侵食で一部残存
7号住居跡南群方形不明隅部のみ残存侵食の影響を示す

土器と土錘から生活を読む

出土土器には、壺形土器、甕形土器、高坏形土器などが含まれる。壺は貯蔵、甕は煮炊き、高坏は供献や儀礼に関わる器として考えることができる。欠山式土器は、弥生時代後期の年代を考える手がかりである。

特に注目したいのは、4号住居跡から出土した土錘である。土錘は漁網に付ける重りと考えられる遺物で、高台にある集落が低地・水域の生業と結びついていた可能性を示す。城之崎遺跡の弥生集落は、単に「山の上に逃げた集落」と見るだけでは足りない。高台を生活の場としながら、低地の水域を生業の場として利用する、柔軟な土地利用の姿が見えてくる。

高台の住居 低地・潟湖・川 土錘 安全な居住地と水辺の生業 往復する生活動線
高台の住居と低地の生業を模式化した図。土錘は、城之崎遺跡の弥生集落を水辺の利用と結びつけて読むための重要な手がかりである。

城之崎2号墳 - 礫床と鉄製品の古墳

城之崎2号墳は、南北径約13.2m、東西径約12.1m、墳丘高約1.13mの円墳で、6世紀後葉に位置づけられる。周囲には周溝があり、内部主体は横穴式石室状の掘り方を持つが、石室壁は確認されず、礫床を主体とする構造であった。

床面や構造には排水を意識した工夫が見られる。出土遺物には須恵器提瓶、刀子、鉄鏃などがあり、葬送儀礼や副葬品の性格を考える手がかりになる。刀子や鉄鏃の配置については、工具・武器としての意味に加え、辟邪的な意味を持つ可能性も考えられるが、ここでは断定せず、複数の読み取りの一つとして扱う。

城之崎2号墳の主な遺物
遺物特徴出土状況読み取り
須恵器提瓶環状把手、歪みあり床面最奥部付近副葬用土器として扱う
刀子複数出土主体部内工具・武器・呪術的配置の可能性
鉄鏃複数出土奥部付近武器副葬、被葬者像を考える手がかり

城之崎3号墳 - 二段葺石と装身具の古墳

城之崎3号墳は、2号墳の南西約40mに位置し、南北径約16m、東西径約17.8mの楕円形円墳である。築造時期は7世紀前葉に位置づけられる。大きな特徴は二段葺石で、墳丘を保護するだけでなく、墓域を視覚的に示す役割も持っていたと考えられる。

内部主体は横穴式石室の平面プランを持つ。盗掘を受けているが、須恵器、金銅張り耳環、水晶製勾玉、碧玉製管玉、丸玉・小玉、鉄製品などが確認されている。これらの装身具は、被葬者の地位や、地域社会の階層化を考える手がかりとなる。

城之崎3号墳の主な遺物
遺物種別内容意味
須恵器坏蓋、坏身、平瓶、長頸瓶など葬送儀礼・外部流通との関係
耳環金銅張り装身具としての威信性
勾玉水晶製被葬者の地位を示す可能性
管玉碧玉製装身具群の一部
鉄製品鉄鏃など武器副葬の要素

2号墳と3号墳を比較する

2号墳と3号墳の差は、単なる規模の違いではない。埋葬施設、外部施設、副葬品の質が変化しており、古墳時代後期の磐田原台地南部における在地集団の階層化を考える手がかりになる。

城之崎2号墳 城之崎3号墳 礫床・刀子・鉄鏃 二段葺石・横穴式石室・装身具 時代差 階層差
2号墳は礫床と鉄製品、3号墳は二段葺石・横穴式石室・装身具が目立つ。両者を並べることで、一世代程度の時間差と造営力の変化が見えてくる。
2号墳・3号墳比較表
比較項目城之崎2号墳城之崎3号墳読み取り
時期6世紀後葉7世紀前葉一世代程度の時間差が想定される
墳丘小型円墳やや大きい楕円形円墳規模と造営力の差
外部施設周溝二段葺石・浅い周溝視覚的な墓域表示の強化
内部主体礫床中心横穴式石室埋葬施設の発展
副葬品須恵器、刀子、鉄鏃須恵器、耳環、勾玉、管玉等被葬者層の変化・階層性
解釈実用性・呪術性が強い威信財・労働動員が目立つ在地首長層の上昇・再編の可能性

周辺遺跡との関係

城之崎2号墳・3号墳は、孤立した古墳ではない。縄文時代には西貝塚など潟湖・貝塚文化との関係があり、弥生時代には二之宮遺跡、鎌田・鍬影遺跡など低地の大規模集落との関係が想定される。古墳時代には松林山古墳、堂山古墳、城之崎丸山古墳など、磐田原台地南部の古墳群の中に置いて読む必要がある。

縄文 西貝塚 潟湖・貝塚 弥生 城之崎遺跡 二之宮・鎌田 古墳 松林山・堂山 城之崎丸山 周辺遺跡を時代ごとに結ぶ
時代別の関係を単純化したネットワーク図。城之崎遺跡は、弥生集落と後期古墳を同じ丘陵上に重ねることで、周辺遺跡の時間的なつながりを考える入口になる。

史実・推定・考察を分ける

城之崎遺跡は魅力的な解釈を誘う遺跡である。しかし、学術HTMLとしては、確認できる事実、資料からの推定、磐田物語としての考察、今後の調査課題を分けておく必要がある。

史実・推定・考察・調査課題
区分内容本文での扱い
確認できる事実発掘時期、所在地、検出遺構、出土遺物、墳丘規模など報告書に基づいて記す
資料からの推定高地性集落の性格、古墳の築造意図、周辺遺跡との関係断定せず、複数の根拠を示す
磐田物語としての考察開発と記録保存、地域の記憶、土地を見る視点本稿の視点であることを明示する
今後の調査課題現地の現在地確認、周辺地名、追加資料、聞き取り未確認事項として残す

城之崎遺跡から磐田が学べること

城之崎遺跡は、地面の下に複数の時代が重なっていることを教える。いまの土地利用、住宅地、工場、畑、道路の下にも、過去の暮らしが眠っている可能性がある。開発と記録保存は対立するだけではなく、記録を残す契機にもなる。ただし、記録されなければ土地の記憶は失われる。

城之崎遺跡の価値は、珍しい遺物が出たことだけにあるのではない。弥生の住まい、古墳時代の墓、近代以降の開発、そして現在の記録活動が、一つの丘陵上で重なって見えることにある。磐田の土地は、単なる地面ではない。そこには、暮らし、祈り、労働、開発、保存の時間が積み重なっている。城之崎遺跡は、その重なりを読むための重要な入口である。

縄文貝塚・潟湖 弥生後期高地性集落 6世紀後葉2号墳 7世紀前葉3号墳 1970年緊急発掘 現在記録・再編集 城之崎遺跡の時間の重なり
城之崎遺跡は、縄文の水辺、弥生の高台居住、古墳時代の墓域、1970年の記録保存、現在の再編集をつなぐ場所として読むことができる。

用語解説

本文で使う主な用語
用語説明
高地性集落平地ではなく丘陵上や高台に営まれた集落。防御、環境変化、見張り、避難、生業など複数の要因で説明される。
竪穴住居跡地面を掘りくぼめて床面を作った住居跡。柱穴、炉、側溝などが確認されることがある。
欠山式土器弥生時代後期の土器型式の一つ。本文では年代を考える手がかりとして扱う。
土錘漁網などに付ける重り。城之崎遺跡では低地・水域との関わりを考える重要な遺物。
周溝古墳の周囲に掘られた溝。墓域の区画や排水などの意味を持つ。
葺石古墳の斜面や裾に置かれた石。墳丘保護や視覚的表示の役割を持つ。
横穴式石室横方向から遺体を納める構造を持つ石室。古墳時代後期に広く用いられた。
威信財社会的地位や権威を示す品物。装身具や特殊な副葬品など。

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参考資料・作成方針

本文は、ユーザー提供資料「城之崎遺跡発掘調査報告書」および「城之崎遺跡に関する追加調査」をもとに、確認できる事実、資料からの推定、磐田物語としての考察を分けて再構成した。発掘調査報告書の本文・図版を転載するのではなく、地形・遺構・遺物・周辺遺跡との関係を、磐田の地域史を読むための学術HTMLとして整理した。