何が残っているのか
磐田原台地の南東縁に並ぶ複数の古墳で、前期の大型前方後円墳である松林山古墳などを含む国指定史跡である。
松林山古墳をはじめとする御厨の大型古墳群を、磐田原台地とヤマト王権の接点として読み直す。
磐田原台地の南東縁に並ぶ複数の古墳で、前期の大型前方後円墳である松林山古墳などを含む国指定史跡である。
遠江の古い段階の有力者層の墓域として、ヤマト王権との結びつきや東海地方の古墳社会を示す点に価値がある。
新貝・鎌田の台地、伊勢神宮御厨に由来する地名、三角縁神獣鏡の伝来、後代の遠江国府の歴史へつながる。
このページでは、指定区分、種別、年代、所在地、指定年月日を、磐田市公式の指定文化財情報および既存の「磐田市の指定文化財一覧」に基づく事実情報として扱う。指定年月日の平成13年3月26日は、既存の一覧(c021)で裏が取れた値をそのまま記した。公式説明は古墳群を同定するための骨格であり、本文ではその文面を写すのではなく、磐田の地域史のなかでどのように読むかを中心に再構成する。
古墳群は、単独の文化財と違って、複数の墓が一つの史跡としてまとめて評価されている点に特徴がある。入口になる語は「新貝・鎌田 / 磐田原台地 / 御厨という地名 / 松林山古墳 / ヤマト王権との接続」である。これらを分けて見ると、御厨古墳群は地図上の一点ではなく、台地の縁に沿って広がる墓域の総体として立ち上がってくる。
御厨古墳群が営まれた新貝・鎌田一帯は、磐田原台地の南東の縁にあたる。磐田原台地は、西を天竜川、東を太田川水系(今之浦)に挟まれた洪積台地で、古墳や遺跡はその縁辺に集中して分布する。これは偶然ではない。台地の縁は、水を得やすい低地を見下ろし、なおかつ水害を受けにくい安定した地盤であり、見晴らしも利く。古い時代の有力者が、自らの墓を築く場所として選ぶ条件がそろっていた。
古墳の立地を読むときは、「なぜそこか」を地形から考えるとよい。前方後円墳のような大型の墓は、平地のただ中ではなく、低地に向かって張り出す台地の先端や縁に築かれることが多い。低地で働く人々から見上げられる位置に墓を置くことで、被葬者の存在が景観そのものに刻まれる。御厨古墳群の各古墳も、こうした「見られる墓」としての立地条件のうえに営まれたと読み取れる。
磐田原台地の南は、遠州灘へと続く低地である。古墳時代の海岸線や河道は現在とは異なるが、この一帯が太平洋側の海上交通に開かれた位置にあったことは、地形の大枠から考えられる。鏡や鉄製品といった当時の威信財は、内陸で自給できるものではなく、広域の交流をとおして手に入れられた。台地の縁に大型の墓を築けた人々が、低地と海に開いた交通の結節点を押さえていたことは、御厨古墳群の性格を考えるうえで重要である。
「御厨(みくりや)」という地名は、伊勢神宮の御厨、すなわち神宮に食料や品々を納める所領に由来すると伝えられる。これは古墳時代よりずっと後、平安期以降の荘園的な所領のあり方を示す言葉であり、古墳群そのものの命名根拠ではない。しかし、御厨という地名が後世にこの地に与えられたこと自体が、新貝・鎌田一帯が古くから生産力をもち、中央と結びつく価値を認められてきた土地であったことを示している。
つまり、古墳時代に大型墓を築いた有力者がいた土地が、後の時代には神宮御厨として中央に組み込まれ、さらに後には遠江国府の置かれた見付・中泉とともに、遠江の中枢の一角を担っていく。御厨古墳群は、こうした長い土地の記憶の、もっとも古い層にあたる。地名と古墳を重ねて読むことで、一つの土地が時代ごとに中央とどう結びついたかが見えてくる。
御厨古墳群は、複数の古墳の総称である。ここでは、群を構成する主な古墳を小見出しで整理する。各古墳の規模や築造順については、調査や資料によって数値が異なる場合があるため、本文では確実な数値の断定を避け、性格の理解を中心に記す。詳細な計測値は磐田市公式や発掘調査報告で確認されたい。
御厨古墳群を代表するのが松林山古墳である。古墳時代前期に築かれた大型の前方後円墳とされ、群のなかでも特に古く、規模も大きい。前期の前方後円墳は、ヤマト王権の中枢で確立した墓制が各地の有力者に共有されていった段階を示すもので、その大型墳が遠江の御厨に営まれていることは、この地の有力者が早い段階から中央と結びついていたことを物語る。
松林山古墳からは、三角縁神獣鏡をはじめとする副葬品が出土したと伝えられる。三角縁神獣鏡は、古墳時代前期にヤマト王権が各地の有力者へ配ったと考えられている鏡で、王権と地方の結びつきを示す代表的な威信財である。磐田物語では、この系統の鏡を「三角縁四神四獣鏡」(u025)として別に扱っており、松林山古墳と御厨古墳群を、鏡の伝来という観点からも読み直すことができる。
高根山古墳は、御厨古墳群を構成する古墳の一つである。松林山古墳とともに台地縁の墓域を形づくり、群の広がりと、有力者層が複数の世代・系統にわたって墓を営み続けたことを示す。古墳群が一つの墓に終わらず、複数の墳墓の連なりとして残されていることは、この地の有力者の地位が一代限りでなく継承されていったことを読み取らせる。
御厨堂山古墳も群を構成する古墳である。「御厨堂山」という名は、御厨という地名と結びついた呼称で、土地の記憶が古墳の名に残っている例として興味深い。古墳の名は、後の時代の人々がその塚をどう呼び、どう位置づけてきたかを伝える。地名と古墳名が重なるとき、その塚が地域の景観のなかで長く意識され続けてきたことがうかがえる。
秋葉山古墳は、火防の神である秋葉信仰にちなむ名をもつ古墳である。古い塚の上や近くに祠が祀られ、秋葉社などの名で呼ばれるようになる例は各地にみられる。古墳が単なる遺跡として放置されたのではなく、後世の信仰の場として土地に組み込まれ、そのことでかえって削平を免れ、現在まで残された場合があることを、この名は示唆する。古墳の保存と地域の信仰は、しばしば分かちがたく結びついている。
稲荷山古墳もまた、稲荷信仰にちなむ名をもつ古墳である。秋葉山古墳と同様、塚と信仰が結びついた例と読める。古墳群を歩くと、こうした信仰由来の名をもつ塚にしばしば出会う。塚を畏れ、また祀ることで、人々は古墳を壊さずに残してきた。御厨古墳群が国指定史跡として今日まで伝わった背景には、こうした地域の信仰と土地利用の積み重ねがあると考えられる。
前期の大型前方後円墳が、なぜ遠江の御厨に築かれたのか。これを考えるうえで欠かせないのが、ヤマト王権との関係である。前方後円墳という墓の形と、三角縁神獣鏡のような副葬品は、王権の中枢で確立し、各地の有力者に共有・配布されていったと考えられている。すなわち、御厨に大型墳を築けた有力者は、王権の秩序の一端を担い、その権威の配分にあずかる立場にあったと読み取れる。
遠江は、東海地方を東西に貫く交通路の要にあたる。後の時代に東海道が通り、遠江国府が見付に置かれたことからも、この地域が広域の交通と統治のうえで重要であり続けたことが分かる。御厨古墳群は、その長い重要性の起点に位置する。古墳時代前期にこの地の有力者が中央と結んだ関係が、のちの国府の設置、神宮御厨の成立へとつながる土台になったと考えることができる。
| 時期 | 見るポイント | このページでの扱い |
|---|---|---|
| 古墳時代前期 | 松林山古墳など大型前方後円墳の築造。三角縁神獣鏡の伝来。 | ヤマト王権と御厨の有力者の結びつきの起点として読む。 |
| 古墳時代を通じて | 高根山古墳ほか、群を構成する複数の墓が営まれる。 | 有力者の地位が世代をこえて継承されたことの跡として読む。 |
| 奈良・平安期以降 | 遠江国府の設置、神宮御厨に由来する地名の成立。 | 古墳時代に結ばれた中央との関係が後代へ引き継がれた層として読む。 |
| 近世から近代 | 塚に秋葉・稲荷などの信仰が結びつき、削平を免れる例。 | 古墳が地域の信仰・土地利用のなかで残された経緯として読む。 |
| 平成13年3月26日 | 国指定史跡として価値が制度上確認された日。 | 地域の記憶が国の文化財保護の対象になった節目として扱う。 |
現地で見るときは、古墳の名や形だけでなく、台地の縁という立地、低地との高低差、見晴らしの方向を合わせて確認したい。御厨古墳群は新貝・鎌田の一帯に分散して残るため、一つの塚を見て終わるのではなく、台地の縁に沿ってどのように墓が連なっているかを意識すると、群としての広がりが実感できる。松林山古墳のような中心的な墳と、信仰由来の名をもつ塚とを見比べると、古墳が時代ごとにどう扱われてきたかも読み取れる。
ただし、史跡には所有者・管理者があり、保全や安全のために立ち入りや観察の範囲が定められている場合がある。墳丘の上に登る、私有地に踏み込むといった行為は避け、現地の案内や公開範囲に従いたい。文化財を読むことは、見に行くことだけでなく、千数百年残されてきた塚をこれ以上損なわないよう振る舞うことでもある。