石高が語る、元禄の磐田
数字の奥に見える土地と人 -- 村高・用水・天竜川から読み解く、近世磐田の豊かさのかたち
国府以来、遠江の中心地であった磐田は、近世に入ると城を持たない、天領と宿場の地として姿を変えていった。では、城下町ではなかった磐田は、どのような豊かさを持っていたのか。本稿では、石高という数字を手がかりに、元禄のころの磐田がどのような土地であり、人びとが水と地形にどう向き合ったのかを読み解く。
目次
第一章石高とは何か、そして史料の癖
石高とは、土地の米の生産力を米量で表した近世の基準値である。村ごとの負担、領主の支配規模、国や郡の大きさは、この石高によって把握された。したがって石高は、単なる農業統計ではなく、土地をどう評価し、誰がどのように支配したかを示す政治的な数字でもあった。
史実元禄郷帳は表高、天保郷帳は内高を重んじる性格を持つとされる。したがって、元禄から天保へ数字が増えたとしても、それをそのまま生産力の増加と読むことはできない。記載基準の変化、検地・新田改め、村の分合、永高表示の名残などが重なっているためである。
遠江国では、正保段階で一部の村が永高、すなわち永楽銭表示で評価された名残も知られる。石高を一本の物差しにして比較するには、こうした史料の癖を先に見ておく必要がある。数字を鵜呑みにしないことが、本稿の出発点である。
第二章遠江国のなかの磐田 -- 郡で見る規模感
まず遠江国全体を眺めると、近世から明治初年にかけて総石高はおおむね二十五万石台から三十七万石余へ広がって見える。ただし、これは新田開発だけでなく、史料の基準差を含む数字である。
| 時期 | 石高 | 村数 | 典拠 |
|---|---|---|---|
| 太閤検地(慶長3=1598) | 25万5,160石 | -- | 「慶長三年地検目録」系「全国石高一覧」 |
| 正保郷帳 | 28万9,185石余(新田込30万9,855石余) | 930村 | 日本歴史地名大系・文献解題 |
| 旧高旧領取調帳(明治初年) | 37万2,388石余 | 1,242村 | 木村礎校訂『旧高旧領取調帳』 |
現在の磐田市域は、近世の郡でいえば豊田郡・山名郡・長上郡などにまたがり、見付宿のみで構成された磐田郡も関係する。しかし、郡域と現在の市域は一致しない。とくに豊田郡は北の山間、現在の浜松市天竜区方面まで及ぶため、郡の石高をそのまま磐田市の石高とみなすことはできない。
| 郡 | 村数 | 石高 | 現在の主な該当域 |
|---|---|---|---|
| 豊田郡 | 277村 | 5万5,992石余 | 磐田中心部から北部山間(浜松天竜区含む) |
| 山名郡 | 116村 | 3万9,958石余 | 御厨・福田方面ほか |
| 長上郡 | 129村 | 3万569石余 | 掛塚方面・浜松東部 |
| 敷知郡 | 153村 | 4万9,827石余 | 浜松城下中核 |
| 麁玉郡 | 6村 | 2,233石余 | 浜松北部 |
| 引佐郡 | 54村 | 1万7,927石余 | 浜松北西部 |
注記:郡域と現在の市域は一致しない。とくに豊田郡は北の山間部を多く含むため、郡の石高をそのまま磐田市の石高とみなすことはできない。
第三章寺谷用水がつくった穀倉 -- 「二万石余」という核
史実寺谷用水は天正16年(1588)に着工し、天正18年(1590)に完成したと伝えられる。家康の命により、伊奈忠次・代官平野重定が天竜川左岸、現在の磐田市寺谷付近から約12kmの用水を開削した。造成当時の井組は73か村に及んだ。
寛政元年の「寺谷用水由緒書上」には、井組役高として「高二万石余」が定められたことが見える。完成当時は新田約400haを含む約2,000haの水田を潤したとされ、現在の受益面積も1,504haに及ぶ。これは、磐田南部平野を考えるうえで見逃せない数字である。
分析磐田南部平野の豊かさは、自然に与えられただけのものではない。氾濫原という高リスクの低湿地を、治水と用水によって稲作地に変えた営みの結晶が「二万石余」という数字に表れている。石高とは、土地そのものの力だけでなく、人が水を引き、堤を守り、田を維持した結果でもある。
しかも取水口は、天竜川の川瀬移動によって七年ごとに伏替えを要したとされる。井組はその費用を負担し続けた。豊かさは安定した贈り物ではなく、不断の労苦によって保たれた状態であった。
第四章台地と低地 -- 天竜川がつくった地形と石高
磐田原台地は標高およそ10mから120mの台地であり、地下水面が深い。近世を通じて開発は容易ではなく、台地は畑や山として利用される部分が多かった。一方、天竜川・太田川沿いの低地は洪水のリスクを抱えながらも、肥沃な堆積土を持つ土地であった。
天竜川は古代に「麁玉河」とも呼ばれ、流路を東西に動かしてきた。自然堤防には集落が立地し、その背後の湿地は用水整備後に水田化されていく。洪水によって耕地が河原化し、石高から外れる「川成」も起こりえた。検地での低め査定や川除負担は、水辺の村にとって現実的な問題であった。
分析石高の高低は、土地の優劣だけを示すものではない。むしろ、「水とどう折り合ったか」の記録でもある。水を避ければ台地の畑となり、水を制すれば低地の水田となる。磐田の近世は、その二つの選択が重なる場所にあった。
第五章新田と湊 -- 海へ広がる開発
福田・竜洋方面の海岸部には、低湿地や砂丘背後の土地が広がっていた。ここでも石高の増加は、自然の豊穣だけでは説明できない。太田川流域の用水整備、砂丘背後の開発、新田村の成立が重なり、海へ向かって農地が広がっていったと考えられる。
掛塚湊は、天竜川河口の湊として知られる。慶長11年(1607)には角倉了以が信濃から掛塚への通船を開いたとされ、信濃からの筏流しや材木流通の集散地として発展した。ここに見えるのは、米だけではない磐田南西部の豊かさである。
留保元禄から天保への数値比較は、表高から内高への基準差を含む。したがって、見かけの増加をただちに生産力増と断じることは避けるべきである。
第六章磐田と浜松 -- 規模は同じ、性格は逆
磐田市域の農業生産の規模を考えるとき、ひとつの目安として四万から五万石台という推計が置ける。ただし、これは本調査時点の仮説であり、村別合算による検証が必要である。浜松城下の中核にあたる敷知郡が約4万9,827石余であることを見れば、農業生産の大きさだけなら、両者は数万石規模で大差ない可能性がある。
決定的な違いは、土地の性格と支配構造にあった。浜松は譜代大名の城下町であり、「出世城」と呼ばれるように藩主の交代も多く、武士の集住と東海道浜松宿が城下に集中した。一方、磐田は城を持たない。天領、旗本領、諸藩の飛地が錯綜する相給支配の地であり、富の核は見付宿の交通と中泉の行政に分散していた。
第七章石高で測れない豊かさ -- 見付宿と中泉代官所
見付宿は東海道五十三次の二十八番目の宿場であり、鎌倉期から国衙・守護所が置かれた東海道屈指の宿場町であった。『東海道宿村大概帳』(天保14年=1843)には、家数1,029軒、本陣2、脇本陣1、旅籠屋56と記される。
中泉では天正15年(1587)に家康が中泉御殿を造営し、のち中泉代官所が遠江・三河の天領を統括した。天保期には六万石余を支配したとされるが、ここで注意すべきは、この数字が中泉村の村高ではなく、代官の支配高であるという点である。
分析磐田の経済力は、農業石高だけには現れない。交通の結節点である見付、広域行政の拠点である中泉、天竜川の水運と掛塚湊。こうした中心性こそが、数字に表れにくい磐田の豊かさであったと考えられる。
結語 石高は、土地と人の格闘の結晶
石高は静的な数字ではない。人が水や土地とどう向き合ったかの記録である。元禄の磐田の豊かさは、天与の条件だけで生まれたものではなく、治水、用水、新田、交通という人為によって築かれた。
もちろん、本稿で示した磐田市域総石高四万から五万石台という見通しは、なお村別合算による検証を要する。数字の奥には、まだ読み解かれていない村ごとの物語が眠っている。石高を読むことは、その眠っている物語へ近づくための入口なのである。
出典・参考文献
- 木村礎校訂『旧高旧領取調帳』近藤出版社/国立歴史民俗博物館「旧高旧領取調帳データベース」
- 大野瑞男「国絵図・郷帳の国郡石高」『白山史学』23号(1987)
- 「慶長三年地検目録」『大日本租税志 中巻』(1908)系「全国石高一覧」
- 『東海道宿村大概帳』(天保14年=1843)
- 『日本歴史地名大系』(平凡社)遠江国
- 寛政元年「寺谷用水由緒書上」(浜松市立中央図書館蔵)/寺谷用水土地改良区資料・磐田市公式・「広報いわた」2022年11月号
- 国立公文書館デジタルアーカイブ(元禄郷帳・天保郷帳・天保国絵図 遠江国)
- 『改訂新版 世界大百科事典』「遠江国」「天竜川」
- 静岡県史 通史編/磐田市誌/各旧町村史