磐田原から今之浦へ――台地と入り江がつくった磐田の暮らし
旧石器時代・縄文時代の遺跡と、磐田原台地・今之浦の地形から読む地域のはじまり
磐田のまちを歩いていると、坂の上と下で景色が変わる。見付から向陽、岩田・大藤・向笠へ向かう道では、知らないうちに磐田原台地へ上がっていく。反対に、見付や中泉から今之浦へ目を向けると、土地はゆるやかに低くなり、かつて水辺だった場所の気配が地名の中に残っている。
いまの今之浦は、住宅、道路、店舗が並ぶ市街地の一部である。けれども「浦」という字を見れば、そこに水辺の時間があったのではないかと考えたくなる。『平成6年度 磐田市歴史セミナー資料集』第1回「磐田原から今之浦へ」は、その感覚を、地形と考古資料から確かめるための入口になる。
目次
第一章今之浦という地名から考える
磐田の歴史というと、見付宿、府八幡宮、旧東海道、中泉御殿、遠江国分寺などが思い浮かびやすい。どれも磐田を考えるうえで欠かせない場所である。ただし、それらの舞台が置かれる前から、この土地には台地があり、川があり、海が入り込む低地があった。人はその地形の上に、住む場所、歩く道、食べ物を得る場所を選んできた。
今之浦という地名は、現在の市街地だけを見ていると少し不思議に感じる。浦は海や入り江、水辺を思わせる字である。今之浦川の周辺を歩いても、そこに大きな入江が広がっていた姿をすぐに想像するのは難しい。道路と建物が続き、土地は排水され、生活の足場として整えられているからである。
しかし、地名はときどき、地形の古い姿を小さく残す。今之浦もその一つとして読むことができる。資料「磐田原から今之浦へ」は、今之浦を単なる地名の話で終わらせず、磐田原台地、天竜川、太田川、砂州、海進と海退、旧石器時代や縄文時代の遺跡と結びつけている。そこにあるのは、寺社や街道の時代よりずっと前の磐田である。
この記事では、資料本文をそのまま写すのではなく、向陽の台地と見付の町、そして今之浦の低地を、現在の地図と歩く感覚に引き寄せながら読み直す。見付から北東へ上がれば磐田原台地の端に出る。向陽地区の岩田・大藤・向笠は、その台地と丘陵、水の通り道を考える場所である。一方、見付から中泉、今之浦へ下れば、低地と水辺の成り立ちが見えてくる。
見付の町を起点に、北東の台地へ向かう道と、今之浦方面へ下る道を意識して歩くと、磐田の地形は平らな市街地ではなくなる。坂、低地、川筋、古い地名が、それぞれ別の時間を持っていることに気づく。
第二章磐田原台地はどのようにできたのか
資料歴史セミナー資料では、磐田台地の形成を、天竜川・太田川に挟まれた地形として説明している。現在の市街地から見ると、磐田原は住宅地や畑、学校、道路のある高台に見えるが、その土台は長い時間の中でつくられた地形である。
磐田原は、単なる高台ではない。水の届き方、道の通り方、住む場所の選び方を左右した、磐田の骨格である。台地の上は見晴らしがきき、水害を受けにくい一方で、低地のように水を得やすい場所ではない。台地の縁には、上と下をつなぐ道が生まれやすい。そこでは人が移動し、ものが動き、集落や墓、信仰の場所が形を持つことがある。
向陽地区を考えると、この台地の意味がよく分かる。岩田、大藤、向笠は、磐田原台地とその周辺の谷、太田川や敷地川の流れを抜きにしては語りにくい。地名や旧村のまとまりは、行政の線だけで決まったものではなく、丘陵、水、道、耕地の条件と結びついている。
見付もまた、台地と低地の関係の上にある。旧東海道の宿場として知られる見付は、ただ街道が通った町ではない。周辺には府八幡宮、遠江国分寺跡、一の谷中世墳墓群などがあり、古代から中世にかけて、磐田原台地の南縁やその周辺がどのように使われたかを考える場所でもある。
資料に示された「生活の舞台」という見方は、考古学の前提をよく表している。遺物だけを取り出しても、人の暮らしは見えにくい。石器が出た場所、貝塚が残った場所、墓域が選ばれた場所を、地形の中に戻してみる必要がある。磐田原台地の上、台地のへり、今之浦の低地、太田川や天竜川の流れを合わせて見ると、同じ磐田市内でも生活の条件は大きく違っていたと考えられる。
第三章今之浦はなぜ「浦」なのか
今之浦は、現在の感覚では内陸の市街地である。店があり、住宅があり、道路が通り、日常生活の場所として使われている。そこに「浦」の字が残ることは、地形を読む手がかりになる。
資料歴史セミナー資料では、今之浦の形成を、海流、砂州、低地の形成と関係づけて説明している。海が入り込んだ時期、砂州が発達した時期、湿地や低地として残った時期を、ひと続きの変化として見る必要がある。
ここで気をつけたいのは、「昔は海だった」と短く言い切らないことである。海岸線は時代によって動き、入り江の範囲も水深も一定ではない。縄文時代の海進、砂州の形成、河川から運ばれる土砂、低地の湿地化が重なり、現在の今之浦周辺の地形が少しずつ整っていったと読むほうがよい。
資料では、植物や花粉、海浜性植物の話題も、今之浦周辺の環境を考える手がかりとして扱われている。どの植物がどの場所に生えていたかを一つずつ断定するのではなく、海辺、湿地、低地、台地縁辺という環境の違いを考える材料として見ることができる。
見付から今之浦へ向かうと、地形は大きな段差として見えるわけではない。それでも、水の集まりやすさ、川筋、低い土地の広がりを意識すると、現在の市街地の下に、かつての水辺の条件が残っていることが分かる。今之浦という名は、そのことを完全に説明してくれるわけではないが、地図を開くきっかけにはなる。
| 見る場所 | 現在の姿 | 地形から考えられること |
|---|---|---|
| 磐田原台地 | 向陽、見付北東側の高台、畑、住宅地 | 水害を避けやすいが、水の得方に工夫が要る場所 |
| 台地の縁 | 坂道、町と高台をつなぐ道 | 人の移動、墓域、寺社、集落の配置を考える線 |
| 今之浦低地 | 市街地、道路、川筋、住宅地 | 入り江、湿地、砂州、河川の変化を重ねて読む場所 |
| 西貝・御厨方面 | 台地南部と低地が接する地域 | 貝塚、城之崎遺跡、古墳群などを地形の中で見る場所 |
第四章旧石器時代の人々は、台地のどこを歩いたのか
資料第1回資料では、磐田の旧石器時代について、磐田原台地の旧石器時代遺跡図を用いながら説明している。図版そのものはここに掲載しないが、台地上や台地縁辺に遺跡が点在することは、旧石器時代の人々がどのような場所を選んだかを考える手がかりになる。
旧石器時代の人々は、農耕の村を作って同じ場所に長く住み続けたわけではない。石器を持ち、動物や植物、水場を追い、季節や環境に応じて動いていたと考えられる。ナイフ形石器などの石器は、単なる出土品ではなく、人がどこを歩き、どこで作業し、どこで立ち止まったかを示す小さな証拠である。
水を得やすい低地と、見晴らしのきく台地。その境目に人の痕跡が残ることは、土地を選ぶ感覚として理解しやすい。もちろん、現代の住宅地選びと同じにすることはできない。それでも、水、乾いた場所、見通し、移動のしやすさが、人の行動を左右する点では、遠い時代の話が現在の地形感覚につながってくる。
向陽の丘陵や磐田原台地を歩くと、現在の道は舗装され、住宅地や農地として整えられている。しかし、台地の上に立つと、低地を見下ろす感覚や、風の通り方、遠くの山並みの見え方がある。旧石器時代の人が同じ景色を見たとは言えないが、高い場所と低い場所の差は、その時代にも暮らしの条件だったはずである。
資料が旧石器時代を第1回の早い段階で扱うのは、磐田の歴史を町や村の成立からではなく、地形の上を歩いた人の痕跡から始めるためである。見付の宿場や中泉の御殿より前に、磐田原台地を歩いた人がいた。そのことを考えると、磐田の時間の深さは、寺社や街道だけでは測れない。
第五章縄文時代の海と入り江
縄文時代の磐田を考えるとき、海の高さと低地の姿を避けて通ることはできない。資料では、縄文時代の自然環境の変化、とくに海進・海退と関係づけて、今之浦や周辺低地を考えている。横穴海進や縄文中期の地形図が示すのは、現在の市街地とは違う水辺の広がりである。
海が内陸へ入り込めば、低地は入り江や湿地になり、台地の縁は水辺に近い場所になる。そこでは、魚や貝、植物、動物、水鳥など、人が利用できるものが変わる。台地は住む場所や見通しの場所になり、低地は食べ物を得る場所や移動の場所になった可能性がある。
西貝塚や東貝塚という地名を知っている人なら、海から離れた場所に「貝塚」の名が残ることに違和感を持つかもしれない。けれども縄文海進を考えると、その違和感は少しほどける。現在の海岸線だけで地名を見ると分からないが、古い海岸線や入り江を重ねると、貝塚という言葉が別の輪郭を持つ。
今之浦も同じである。いまは市街地の一部であっても、地名と低地の条件を合わせて読むと、そこに水辺の時間があったことを考えたくなる。資料は、今之浦をひとつの町名としてではなく、磐田原台地と低地、海と川が接する場所として扱っている。
縄文時代の人々にとって、海、川、台地は別々のものではなかっただろう。食料を得る場所、住まいを置く場所、道として使う場所、季節ごとに向かう場所が、地形の中でつながっていたはずである。地図上の町名や地区名は後の時代のものだが、地形そのものは、人の行動を長く支え続けてきた。
第六章黒曜石が示す遠い交流
資料歴史セミナー資料では、石器に使われた黒曜石の産地比率が表で示されている。黒曜石は、磐田だけで完結する材料ではない。小さな石片であっても、その産地をたどることで、旧石器時代や縄文時代の人や物の移動が見えてくる。
磐田原で見つかる小さな石片は、この土地だけの物語ではない。資料で扱われる黒曜石は、信州、箱根、伊豆、神津島など、遠い産地とのつながりを考えさせる。もちろん、産地名を挙げたからといって、磐田の人が必ずその場所まで直接行ったとは限らない。人から人へ、集団から集団へ、いくつもの経路を通って運ばれた可能性がある。
石材の移動は、道の存在を考える入口でもある。まだ東海道も宿場もない時代に、ものは動いていた。山を越え、川を渡り、海を使い、集団同士が接触した。その結果として、磐田の遺跡に遠い産地の石が残る。
黒曜石を「きれいな石」として見るだけでは、そこで終わってしまう。しかし、石器の材料として見ると、人がどのような技術を持ち、どのような素材を求め、どの範囲とつながっていたかが見えてくる。磐田原台地の遺跡は、台地の上だけで完結していない。石の産地をたどると、磐田は遠い地域と結びついた場所として見えてくる。
この視点は、見付や中泉が後に交通の結節点となることとも、どこかで重なる。時代はまったく違うが、磐田という土地は、水と台地と道の関係の中で、人と物を受け止めてきた。旧石器時代や縄文時代の黒曜石は、その長い前史を静かに語っている。
第七章磐田原から今之浦へ――土地の記憶をどう読むか
第1回資料の題名「磐田原から今之浦へ」は、単なる場所の移動を示しているだけではない。高台から低地へ、台地から入り江へ、乾いた場所から水辺へという、磐田の地形を読む順路でもある。旧石器時代から縄文時代にかけて、人の生活の足場は、自然環境の変化とともに動いたと考えられる。
向陽と見付を合わせて見ると、この題名の意味はさらに分かりやすい。向陽は磐田原台地や丘陵、水の通り道を考える場所であり、見付は台地縁辺と町、街道、寺社、墓域を考える場所である。そこから今之浦へ目を移すと、低地と水辺の時間が加わる。ひとつの地区だけでは見えにくい磐田の骨格が、上と下、台地と浦をつなぐことで見えてくる。
現代の磐田では、道路、住宅、商業施設によって地形の記憶が見えにくくなっている。平らに造成された土地では、かつての湿地や砂州、古い川筋を感じにくい。台地の上でも、住宅地や学校が広がると、そこが長い時間をかけて形づくられた地形であることを忘れやすい。
それでも、地名、坂、低地、川筋、古い道をたどると、土地の記憶は残っている。今之浦の「浦」、西貝塚・東貝塚の「貝塚」、見付の台地縁辺、向陽の丘陵と水の道。それらは、現在の地図だけでは気づきにくいが、資料と現地を合わせると少しずつつながってくる。
家や土地を見るとき、いま建っている建物だけを見ても、その場所のことは半分しか分からない。どのような台地にあり、どの水に近く、どの道につながってきたのか。磐田物語で地域の歴史を記録する意味は、そこにもある。
参考資料
- 磐田市教育委員会『平成6年度 磐田市歴史セミナー資料集(全9回)』第1回「磐田原から今之浦へ」、山崎克己、6月18日。
- 同資料掲載図版:磐田原台地の旧石器時代遺跡、ウルム氷期最盛期の天竜川・太田川の谷底図、横穴海進の入江と海岸線、磐田原台地の縄文時代遺跡、黒曜石の産地別比率ほか。
- 本記事では図版そのものは掲載せず、資料集に掲載された図版の内容を文章で参照した。元文献については、資料集掲載図版の出典として扱い、直接確認した文献としては記していない。