稲が実り、海の幸が満ちる秋は、収穫を神に感謝する季節である。やがて冬に向かうにつれ、祈りは家の神、地の神、海上安全の神へと移っていく。福田の秋から冬の行事には、祭礼・講・家の信仰という三つの層が折り重なり、そこから村の社会構造そのものが見えてくる。
- 氏神の秋祭りでは屋台が引き回され、集落ごとの結びつきが目に見えるかたちで確かめられた。
- 「講」は信仰の集まりであると同時に、村内の親睦・情報交換・相互扶助の場でもあった。
- 恵比須講・地の神様・金比羅のお日待など、家や屋敷を単位とする信仰が冬に集中する。
- 祭礼・講・家の信仰の三層は、福田という共同体の重なり合う構造をそのまま映している。
収穫と感謝の季節
秋の祈りは、まず寺と神社から始まる。史実として冊子は、九月二十三日のお道元さま(曹洞宗開祖・道元禅師の生誕を祝う行事)が、かつて檀家総出で盛大に営まれたと記す。十月二日には、中野・白山神社で白酒祭り(どぶろく祭り)が行われる。昔、疫病退散を願って白酒を酌み交わしたという故事にちなみ、氏子が手づくりした白酒を神前に供え、投げ餅をして、五穀豊穣・家内安全・無病息災を祈った。冊子によれば、この祭りは現在も毎年十月二日に行われているという。
氏神祭礼と集落の結びつき
秋の最大の行事は、氏神の秋祭りである。史実として冊子は、福田の六社神社の秋祭りが十月十四・十五日に、中島の神明宮が十月十五・十六日に行われると記す。戦時中までは青年団が運営する屋台が二台だけだったが、戦後の好景気に乗って各町内がこぞって屋台をつくり、十数台にまで増えたという。運営も町内単位の中老会が主体になっていった。かつては稲の実るころに伊勢神楽がやって来て、戸別に訪問したことも懐かしいと冊子は添える。
考察屋台が二台から十数台へと増えたという記述は、単なる賑わいの話ではない。屋台を一台持つということは、その町内がまとまりとして自立したことを意味する。秋祭りは、集落ごとの結びつきを目に見えるかたちで毎年確かめ合う場でもあったのである。
講とは何か
福田の信仰を語るうえで欠かせないのが「講(こう)」である。講とは、同じ神仏を信じる人びとが集まってつくる集団であり、その集まりそのものを指す。史実として冊子は、毎月十八日に営まれた秋葉講を、九十五歳の古老が「江戸時代から続いている」と語ったと記す。床の間に秋葉大権現の掛軸を掛け、可睡斎から受けてきた札を祭り、般若心経や御詠歌、和讃を唱和し、終わると各自が持ち寄った赤飯をいただいて持ち帰った。
六十日ごとにめぐる庚申の日に営まれた庚申講もよく知られる。冊子は、青面金剛の掛軸を掲げて読経・礼拝したのち会食となり、献立には太田川でとれた魚の煮出しが使われたと記す。そして庚申講について、「村内のコミュニケーションや親睦の場としても大きな意義をもっていた」と述べている。考察講は、信仰の場であると同時に、村人が定期的に顔を合わせ、情報を交換し、助け合う仕組みでもあった。郷土資料館には小島地区で使われた庚申の道具が残るという。海上安全の神を祀る大峯講のように、生業に直結した講もあった。
家の神、地の神、海上安全の祈り
冬が近づくと、祈りはいっそう家や屋敷に近づいてくる。十一月二十日(月おくれ)の恵比須講では、留守の神々に代わって留まる恵比須を労うため、生きた魚を鉢に泳がせて供えた。冊子は、供えた魚や「さくら飯」は主人と長男しか食べられず、娘が食べると嫁いでも恵比須に呼び戻されるといわれた、という言い伝えまで書きとめている。十一月二十三日には、中島の浜船を持つ漁家で、漁夫が親方の家に集まって船霊さまと金比羅を祀り、豊漁と操業の安全を祈った。
十二月十五日の地の神様(オシャガミ様)は、屋敷の北西の隅に祀られる家の神である。海岸からきれいな砂を運んで敷き、新しい藁の社に取り替えて赤飯を供えた。冊子は、その家の人が亡くなって五十年が経つと地の神となって家を守るといわれている、と記す。伝承として語られるこの考えには、先祖が家の守り神になるという、福田の人びとの死生観がよく表れている。下の図に、祭礼・講・家の信仰の関係を示す。
秋冬行事から見える福田の社会構造
考察秋から冬の行事を並べると、福田という共同体が、いくつもの層からできていたことがわかる。屋台に象徴される「集落(町内)」、講に集う「仲間」、そして恵比須講や地の神に表れる「家」。祭礼・講・家の信仰という三つの層が、それぞれの単位で人びとを結び、重なり合って一つの村を支えていた。
一年の終わりに近い行事として、冊子は御垢離病気平癒祈願を記す。重い病に苦しむ人のために、隣近所が集まって願い書を神棚に張り、太田川の御垢離場で身を清めて平癒を祈った。そして、漁に出る船が完成すると、神官の祝詞とともに川や海へ送り出す船おろしが営まれ、大漁旗をなびかせて初航海に出た。冊子には、その祝い唄の歌詞まで記されている。病を癒やし、船を送り出し、家の神を祀り直して、福田の一年は大晦日へと収束していく。史実として冊子は、大晦日に年越しそばを神前に供え、幸せがそばのように長く続くことを祈ったと記す。こうして、また新しい一年の正月へと、福田の暦は静かに回り続けるのである。