磐田物語。遠江・見付のまちの歴史と文化
磐田物語見付天神裸祭【特集】 / 起源をめぐる三つの説
特集・見付天神裸祭 | 其の二

起源をめぐる三つの説
── 歓喜・人身御供・反閇

この祭りは、いつ、なぜ始まったのか。じつは、その答えははっきりしていない。古くから語られてきた起源説が二つあり、さらに近年、民俗学の立場から第三の説が提示されている。どれが正しいと決めつける前に、それぞれの説が何を根拠にしているのかを、ていねいに見ていきたい。起源の謎をたどることは、この祭りの本質に迫ることでもある。
はじめに断っておきたいこと。見付天神裸祭の起源は、史料によって一点に確定できるものではない。保存会自身が、「過去の一事象をとらえて起源を云々するほど単純ではない」とし、安易な起源論を戒めている。以下に紹介する説のうち、史実として史料で裏づけられるのは神社の沿革の一部にとどまり、起源そのものを語る部分は、多くが社伝・口碑・伝説、あるいは学術的な仮説である。その区別を明示しながら述べる。

そもそも、確かなことは何か

起源の諸説に入る前に、史料で確認できる「確かなこと」を押さえておきたい。矢奈比賣神社そのものの古さは、史実として裏づけられる。平安前期の歴史書『続日本後紀』には、承和七年(840年)に矢奈比賣神に神階が授けられた記事があり、『日本三代実録』には貞観二年(860年)の記録がある。さらに、平安中期の『延喜式神名帳』に「式内社」として名が記されている。つまり、平安のころにはすでに、国に認められた由緒ある古社だったのである。

そして、正暦四年(993年)に太宰府天満宮から菅原道真(天神)を勧請したこと、慶長八年(1603年)に徳川家康から神領五十石が寄進され、見付宿の鎮守とされたこと――これらも、おおむね史実として伝えられている。問題は、「祭り」そのものが、いつ、どのように始まったのか、である。ここから先は、確かな史料が乏しくなり、いくつもの説が立ちあらわれる。

三つの説を、並べてみる

説①・伝承

菅原道真の勧請を祝った「歓喜の舞」とする説

もっとも古くから語られてきた説である。正暦四年(993年)、太宰府天満宮から菅原道真の御霊をこの地に迎えた――その勧請を喜んだ人々が、よろこびのあまり舞い踊った。それが「歓喜踰躍(かんきゆやく)の舞」であり、裸祭の鬼踊りの起こりだとする。学問の神・天神様をお迎えできた喜びが、祭りになったという、いわば祝祭としての起源説である。

評価:勧請の年代(993年)自体は神社の沿革として伝えられるが、それが鬼踊りの直接の起源だとする部分は、社伝にもとづく伝承である。史料で「このとき踊りが始まった」と確認できるわけではない。
説②・伝承

人身御供の「泣き祭り」が、悉平太郎によって転じたとする説

もっともよく知られた、そして劇的な説である。かつて見付には、毎年八月、白羽の矢が立った家の娘を、いけにえとして見付天神に供える「泣き祭り」という悲しいならわしがあった。あるとき、旅の僧が、信濃から霊犬・悉平太郎(しっぺいたろう)を借り受け、娘を求める正体――年老いた狒々(ひひ)の怪物を退治させた。これによって人身御供は終わり、その喜びと感謝が、踊りの祭りへと転じた。つまり、悲しみの祭りが、犬の働きによって、よろこびの祭りに生まれ変わったとする説である。

評価:物語としては鮮烈だが、人身御供の存在も、悉平太郎の怪物退治も、史実としては確認されていない伝説・口碑である。ただし、こうした「人身御供譚」が祭りの起源として語られること自体に、民俗学的な意味がある(詳しくは其の三で扱う)。
説③・学術仮説

鬼踊りを陰陽道の「反閇」に由来するとする説

近年、民俗学者の谷部真吾(やべ・しんご)が提示した、第三の説である。谷部は、鬼踊りの本質を「反閇(へんばい)」――陰陽道や修験道で、大地を強く踏みしめて邪霊を封じ、場を清める呪術的所作――に求めた。その根拠として、明治三十一年(1898年)刊の『風俗画報』に載った記述「此踊り十分ならざれは神輿上がらず(この踊りが十分でなければ神輿は上がらない)」と、神輿の出御前に奏上される祝詞のなかの一節「拝殿の大床をふみならし」を挙げる。つまり、鬼踊りは見世物の乱舞ではなく、地を踏みしめて場を浄め、神が渡御できる清浄な状態をつくり出すための、神事の中核的な所作だというのである。

評価:史料(『風俗画報』・祝詞)にもとづく学術的な仮説であり、祭りの「意味」を構造的に説明する点ですぐれている。ただし谷部自身、「仮説の域を出ない」と慎重に留保している。
起源をめぐる三つの説 説① 歓喜の舞 道真勧請を祝う (993年) 伝承 説② 人身御供 泣き祭り→感謝へ 悉平太郎の退治 伝承 説③ 反閇 地を踏み場を浄む 谷部真吾の仮説 学術仮説 ①②は古くからの伝承、③は史料にもとづく近年の学術的仮説
起源をめぐる三つの説。①②は古くから語られてきた伝承、③は民俗学者・谷部真吾による近年の学術的仮説である。いずれも単独で「正解」と決めつけることはできない。(諸説をもとにした比較図)

「南方渡来説」「国府祭説」もある

起源説は、この三つだけにとどまらない。保存会の資料は、ほかにも「南方渡来説」があることに触れている。さらに、見付が中世に遠江国の国府・守護所の所在地として栄えた歴史を踏まえ、この祭りを「国府祭(こうのまつり)」――国府を中心とした地域全体の祭礼――の要素を受け継ぐものと見る考え方もある。氏神が総社へ渡御するという神事の形そのものが、国府を中心とした古代・中世の信仰のかたちを、今に伝えているという見方である。

「ひとつの起源」を求めないという態度

これだけ多くの説があると、つい「結局どれが本当なのか」と問いたくなる。だが、ここで立ちどまりたい。保存会自身が強調しているのは、まさに「ひとつの起源に決めつけない」という態度なのである。長い歴史をもつ祭りは、ある一日に誰かが始めたものではない。いくつもの要素――天神信仰、総社渡御、人身御供の記憶、浄めの呪術――が、長い時間をかけて重なり合い、溶け合って、今の形になった。だからこそ、ひとつの起源を探すよりも、この祭りがどれほど多くのものを抱え込んでいるかを見るほうが、よほど豊かなのである。

起源が確定しないことは、この祭りの弱みではない。むしろ、それだけ深く、複雑な歴史を生きてきたことの証である。確かなのは、平安の古社を母体に、天神信仰と総社渡御の神事が結びつき、人身御供の伝説を背負いながら、浄めの所作としての鬼踊りを核として、この祭りが受け継がれてきた、ということだ。そのなかでもとりわけ人々の心をとらえてきたのが、説②に登場する霊犬・悉平太郎の物語である。次の其の三では、この伝説そのものを、民俗学の視点から深く掘り下げたい。

主な参考文献

← 其の一・神事の構造と日程 其の三・悉平太郎伝説の考察 →

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