この記事の要点
- 新豊院山古墳群は、磐田原台地の東のへり(尾根筋)に点在する30余基の古墳群で、国の史跡に指定されている。
- 4世紀前半から5世紀にかけて築造され、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳が狭い範囲に共存する多様性が特徴。
- 発掘調査では、ヤマト王権との強い結びつきを示す三角縁神獣鏡や鉄製武器類が出土した。
- 西側の銚子塚古墳(寺谷)とともに、古代遠江の政治的重心が磐田原台地東部にあったことを証明する遺跡である。
新豊院山古墳群とは
磐田市向笠竹之内に位置する古墳群。標高約50メートルの台地東縁の尾根上に、4世紀初頭から5世紀にかけて約30基以上の古墳が築かれた。1987年(昭和62年)に国の史跡に指定されている。
磐田原台地の東縁、向笠地区の背後に横たわる尾根には、古代の墓が多く築かれた。その代表格が新豊院山古墳群である。この地は、東側に開けた低地(太田川や敷地川流域の平野)を一望できる極めて見晴らしの良い場所である。事実として、当時の有力者たちは、自らの権威を示すモニュメントとして、また死後の安息地として、この目立つ尾根筋を選び取った。
この古墳群の最大の魅力は、その「多様性」にある。前方後円墳だけでなく、前方後方墳、円墳、方墳など、当時の日本列島で用いられていた主要な古墳形式がほぼすべてそろっている。解釈になるが、これは単一の絶対的な王だけでなく、複数の有力な家系や首長がこの地域を共同で、あるいは世代交代しながら治めていた様子を反映していると考えられる。
尾根上に並ぶ主な古墳
新豊院山古墳群を構成する代表的な古墳の特徴を整理する。事実として、これらは発掘調査によって詳細なデータが確認されている。
| 古墳名 | 形状 | 規模(全長等) | 築造時期 | 主な特徴・出土品 |
|---|---|---|---|---|
| 新豊院山A号墳 | 前方後円墳 | 約34メートル | 4世紀後半 | 台地の頂部に位置する代表的な古墳。粘土槨から鉄剣等が出土。 |
| 新豊院山D号墳 | 前方後方墳 | 約31メートル | 4世紀前半 | 古墳群の中でも古い段階に築かれた。三角縁神獣鏡の破片が出土。 |
| 新豊院山3号墳 | 円墳 | 径約16メートル | 5世紀前半 | 円墳としての典型的な構造を保つ。中期古墳への過渡期を示す。 |
| 新豊院山10号墳 | 方墳 | 一辺約12メートル | 5世紀 | 小型の方墳。尾根の傾斜地に階段状に配置されている。 |
ヤマト王権との結びつき
古墳群からの出土品は、古代遠江が中央(近畿地方)の政権と深くつながっていたことを物語る。特にD号墳から出土した三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の破片は、学術上きわめて重要である。
古墳時代前期の古墳から多く出土する青銅製の鏡。ヤマト王権が自らへの服属や同盟の証しとして、地方の首長に分け与えた(同型鏡)と考えられている鏡である。
新豊院山D号墳で見つかった鏡は、近畿地方の有力古墳で出土した鏡と同型(同じ鋳型から作られた、またはコピーされた鏡)であることが判明している。解釈になるが、これは当時の向笠周辺を治めていた首長が、ヤマト王権から直接あるいは間接的にその地位を保証され、同盟関係を結んでいた事実を示すものである。台地の西側に位置する寺谷の「銚子塚古墳」と並び、この時期の磐田原東縁 of 首長たちが、東海道における重要な外交・軍事の拠点を担っていたことを推測させるに十分な証拠と言える。
出土した青銅の鏡は、1600年前の磐田と大和(奈良)をつないだ同盟の契約書であった。尾根の上に立つと、古代の東海道を行き交う人々の姿が見えるようである。
よくある質問
見学可能ですが、山道ですので注意が必要です。史跡公園として整備されている箇所もありますが、尾根筋に沿って点在しているため、歩きやすい服装と靴での訪問をお勧めします。向笠竹之内の新豊院(寺院)の背後からアプローチするルートが一般的です。
複数の首長や有力家族が並立していたためと考えられます。前方後円墳は大和との強い結びつきを、前方後方墳は東海地方独自の系譜を示すとされ、これらが同じ尾根に築かれていることは、地域の勢力が多様な文化を取り入れながら共存していた様子を示唆しています。