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磐田物語向陽地区 / 米塚古墳群

向陽地区の記憶 | 古代のモニュメント

米塚古墳群
── 寺谷台地に広がる群集墳の記憶

磐田市寺谷地区、磐田原台地の東縁部の一角にひっそりと佇む「米塚(よねづか)古墳群」。事実として、ここは古墳時代後期の6世紀後半から7世紀にかけて築かれた多くの小円墳が集積する「群集墳(ぐんしゅうふん)」の典型例であり、静岡県の史跡に指定されています。巨大な前方後円墳の時代から、地域の共同体や一般家族が墓を構えるようになった時代への移り変わりを解説します。

この記事の要点

米塚古墳群とは

米塚古墳群よねづかこふんぐん

磐田市寺谷に所在する、古墳時代後期の古墳群(群集墳)。6世紀後半から7世紀前半にかけて築かれた小型の円墳が狭い範囲に密集する。静岡県指定史跡。

古墳時代の前期や中期には、銚子塚古墳(寺谷)や新豊院山古墳群(向笠竹之内)のように、台地の上に圧倒的な大きさを誇る「前方後円墳」が築かれた。それは一部の最高権力者(首長)のみが持ち得た墓だった。しかし、時代が下って6世紀の後半に入ると、古墳の形や規模に大きな変化が現れる。事実として、大ぶりな前方後円墳は姿を消し、小規模な「円墳」や「方墳」が同じ場所に数十基、数百基と密集して築かれるようになった。これを考古学では群集墳と呼ぶ。米塚古墳群は、この群集墳のありようを極めてよく残した遺跡である。

「米塚」という地名の由来については、これは推測の域を出ないが、台地上の丸い古墳の並びが、収穫した米を積み上げた「米俵」や「米山」のように見えたことから、後世の人々が名付けた伝承的名称と考えられる。地名は往々にして、消えかけた歴史の形状を比喩的に土地に留め置く性質を持っている。

群集墳という社会の変化

なぜ、6世紀後半になると小さな古墳が急増したのか。解釈になるが、これはお墓をつくる権利や能力を持つ人々が、特定の王族や大豪族だけでなく、地域の「家族」や「中堅の有力者(名主層)」へと広がったためと考えられている。つまり、社会全体の生産性が向上し、より多くの人々が家族ごとの墓(横穴式石室)を築くようになった結果である。

米塚古墳群の主要な特徴は以下のとおりである。

  • 出土遺物
  • 表1:米塚古墳群に見られる後期の墓制の特徴
    項目特徴・詳細歴史的な意味合い
    墳形と規模直径10〜15メートル前後の小型円墳が主流。絶対的な権力者ではなく、地域の有力家系が単位となった。
    内部構造横穴式石室(石を積んで通路と玄室を作る構造)。一度作れば、家族を何人も「追葬(追加の埋葬)」できた。
    須恵器(すえき)、土師器(はじき)、直刀、耳飾りなど。日常生活や装飾の延長線上に死者の世界を捉えていた。

    横穴式石室と遠州の石材

    米塚古墳群の古墳は、内部に石で組まれた部屋(横穴式石室)を備えている。事実として、この石室の構築には、天竜川の河原から運ばれた丸石(川原石)や、磐田原台地東側の山地で採れる砂岩などが使われている。当時の人々が身近な自然環境から石材を調達し、高度な積石技術を用いて頑丈な石室を作り上げていたことがわかる。

    また、横穴式石室は「入り口」を開閉できる構造になっていたため、一人のためだけの墓ではなく、同じ一族が何代にもわたって同じ石室へ眠る「家族墓」として機能した。これは、古代の日本人が個人から「家族・共同体」へと社会的な単位を強く認識し始めた表れと解釈できる。

    一つの石室に、親から子、孫へと何世代もが眠り重ねられた。小さな円墳の集まりは、古代遠江でたくましく暮らしを繋いだ名もなき家族たちの強い絆の跡である。

    よくある質問

    Q米塚古墳群は現在何基残っていますか。

    開発等により多くが失われましたが、貴重な数基が現存・保護されています。かつては数十基に上る円墳が密集する巨大な群集墳でしたが、近代以降の開墾や道路整備などで多くが消滅しました。現在残る数基は、県指定の史跡として大切に整備・保存されています。

    Q近くの「銚子塚古墳」とはどのような関係ですか。

    時代が異なります。銚子塚古墳は4世紀(古墳時代前期)の巨大な前方後円墳で、一人の偉大な首長のための墓です。これに対し米塚古墳群は6〜7世紀(後期)の群集墳で、時代が約200年以上下ります。同じ寺谷地区の中でも、時代によって政治や社会の仕組みが大きく変わったことを物語っています。

    主な参考資料

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