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磐田物語竜洋地区 / 竜洋町の誕生と近代行政のあゆみ

竜洋地区の記憶 第十一回 | 町村沿革

竜洋町の誕生と近代行政のあゆみ ── 掛塚・十束・袖浦が描いた「竜の洋」の合併史

昭和30年(1955年)、川湊の町と豊かな開拓農村、沿岸の村々が一つとなり誕生した「竜洋町」。天竜川と太平洋から名付けられた町の合併プロセスと、近代化・工業化を成し遂げた行政と住民のあゆみを解説します。

現在の磐田市「竜洋地区」の行政的・地域的なまとまりは、昭和30年の「昭和の大合併」において、掛塚町、十束村、袖浦村が統合して誕生した「竜洋町(りゅうようちょう)」に直接のルーツを持ちます。川と海と大地という、それぞれ異なる歴史と生業を持った町村が、共通の未来を拓くために下した合併の決断と、その後の歩みをたどります。

本稿の要点
  • 1町2村の大同団結:商業と海運の掛塚町、農業の十束村、製塩と沿岸漁業の袖浦村が、戦後の地方自治強化の流れのなかで一つにまとまりました。
  • 「竜洋」という美しい名の誕生:天竜川の「竜」と、太平洋の「洋」を組み合わせ、雄大な自然と世界に開かれた明るい未来を象徴して命名されました。
  • 近代産業と観光の調和:合併後は、広大な土地を活かした工業団地の造成や、竜洋海洋公園などの観光基盤の整備を進め、磐田郡を代表する先進的な町へと躍進しました。

昭和の大合併と「竜洋町」命名の理念

昭和二十年代の後半、日本政府は町村の自治能力を強化し、公共サービスを一元化するため、全国規模での町村合併(昭和の大合併)を強力に推進しました。天竜川河口のこの地域においても、合併の議論が本格化しました。対象となったのは、古くからの商業湊町である「掛塚町(かけつかちょう)」、実り豊かな稲作地帯である「十束村(とつかむら)」、そして砂浜と漁業・畑作の「袖浦村(そでのうらむら)」でした。

それぞれ異なる歴史と利害関係を持つ1町2村の交渉は、水利権や公共施設の配置を巡って時に紛糾しましたが、「個別の小さな町村のままでは、戦後の激変する社会に対応できない」という大局的な見地から、昭和30年(1955年)4月1日、合併が正式に合意され、新自治体「竜洋町」が発足しました。町名は、東の境界である大河・天竜川の「竜」と、南に広がる雄大な太平洋の「洋」から取られ、海と川の豊かな恵みを受けながら、世界へと飛躍する町になるようにという高い理想が込められていました。

河口の町から工業・住宅・観光を調和させた近代都市へ

竜洋町の誕生後、行政と住民が一体となって進めたのが、地域の近代化と産業構造の多角化でした。それまでの農業・漁業中心の産業から脱却するため、町は磐田原台地の南端や沿岸部の遊休地を利用して積極的な「工業団地」の造成を行いました。自動車関連産業や金属加工、繊維などの有力企業を次々と誘致し、地域に新たな雇用と莫大な税収をもたらしました。

また、人口の増加に伴い、学校教育施設の近代化や、道路網の整備、クリーンな水道水の敷設など、住民生活の質(QOL)を向上させるインフラ整備が急速に進められました。これにより、竜洋町は単なる地方の農漁村から、商工業と住宅地が美しく調和した、活気あふれる近代的な地方自治体へと見事な変貌を遂げたのです。

平成の1市3町1村合併と磐田市への参画

竜洋町は、その優れた財政基盤と住民の強い連帯力により、磐田郡内でも非常に自立度の高い優良自治体として知られていました。平成期に入ると、町はさらに自然環境と調和した余暇空間の創造に取り組み、沿岸部に広大な「竜洋海洋公園」やオートキャンプ場、温泉施設などを建設し、県内外から多くの観光客を集めるレジャーの拠点としても定着しました。

そして、平成17年(2005年)4月1日、さらなる広域行政の効率化と少子高齢化社会への備えとして、旧磐田市、豊田町、福田町、豊岡村との新設合併に踏み切り、現在の「磐田市」の一部となりました。町としての独立した行政は終わりましたが、竜洋の人々が築き上げてきた「川と海を愛し、開拓精神を忘れない」気風と、豊かな産業基盤は、新生・磐田市の南のエンジンとして、今も力強く鼓動し続けています。

主な参考資料

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