失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語中世の磐田と仏教文化特集 / 国分寺の後
中世の磐田と仏教文化特集 | 子ページ

国分寺の後
── 古代の祈りはどこへ向かったか

遠江国分寺の七重塔が炎に消え、国を治めた国府もやがて役割を終える。けれども、磐田の地から祈りが絶えたわけではない。国家が営む大寺院の時代から、人々がそれぞれに救いを求める時代へ――この子ページでは、古代から中世へと、祈りのかたちがどう移り変わっていったのかをたどる。中世の磐田と仏教文化を読むための、いわば「橋」となる一篇である。

1七重塔が消えた日

奈良時代、現在の磐田には、国家の祈りの場として遠江国分寺がそびえていた。その象徴が、空高くそびえる七重塔である。事実しかしこの塔は、平安のはじめ、弘仁10年(819年)の火災で失われたと伝えられる(『類聚国史』)。国家を挙げて建てた塔が焼け落ちたことは、ひとつの時代の翳りを告げる出来事でもあった。

塔を失った後も、国分寺はしばらく寺としての営みを続けたと考えられる。推定後の修理のために、磐田市寺谷では屋根を葺くための瓦が焼かれてもいる。だが、国家が手厚く寺を支える仕組みそのものが、時とともにゆるんでいった。壮大な伽藍を維持するには、絶え間ない労力と費用が要る。その支えが細っていけば、堂塔はしだいに傷み、やがて寺域は田畑へと姿を変えていく。古代の大寺院は、静かに役割を終えていったのである。

2律令制のゆるみと、国家の祈りの終わり

国分寺の衰えは、寺だけの問題ではなかった。その背景には、国のしくみそのものの変化があった。事実平安時代の後半になると、土地と人民を国家が直接支配する律令制はしだいにゆるみ、地方の政治は大きく姿を変えていく。中央から派遣される国司のあり方も変わり、国府を中心とした古代的な統治は、その実質を失っていった。

国家が「護国(ごこく)」の名のもとに大寺院を営み、国の安泰を一手に祈る――そうした古代の祈りのかたちは、こうして時代とともに終わりを迎える。推定けれども、それは祈りの消滅ではなく、祈りの担い手が移り変わっていく過程だった。国家にかわって、武士や有力者、そして名もなき庶民が、それぞれに仏へ手を合わせるようになる。祈りは、上から下へと、広い裾野をもつものへと変わっていったのである。

3国家の祈りから、人々の祈りへ

中世は、仏教が大きく裾野を広げた時代である。推定鎌倉のころには、念仏をとなえて阿弥陀仏の救いにすがる浄土の教えや、踊念仏と遊行(ゆぎょう)で各地をめぐる時宗、坐禅によって悟りをめざす禅など、わかりやすく、庶民にも開かれた信仰が各地へ広まっていった。むずかしい学問や壮大な伽藍がなくとも、念仏ひとつで救われるという教えは、戦乱や飢饉に苦しむ人々の心に深く根をおろした。

磐田の地でも、この大きな流れは確かに及んでいる。事実豊田・池田の行興寺が時宗の寺として知られることは、その何よりの証である。国家の大寺院にかわって、街道沿いや集落のなかに、人々の暮らしに寄り添う寺が営まれていく。寺は、葬りと供養の場となり、来世の安楽を願う祈りの場となった。古代に「国の華」として築かれた信仰は、中世には、人々一人ひとりの暮らしのなかへと溶け込んでいったのである。

4古代の記憶を受け継いだ、中世の磐田

古代の祈りが終わっても、その記憶までが消えたわけではない。事実国府を母体とした見付は、中世にも遠江の中心でありつづけ、見付天神(矢奈比賣神社)をはじめとする寺社を核に、門前町・宿場として新たに発展していく。古代の中心であったという土地の性格が、中世のまちのかたちを支えたのである。

国分寺の「後」を読むことは、磐田という土地が、ひとつの時代の終わりを越えて、どのように生き継いだかを読むことでもある。失われたものを惜しむだけでなく、そこから何が受け継がれたのかに目を向ける――それが、この特集が中世を読む姿勢である。続く子ページでは、その舞台となった中世都市・見付と寺院、そして地に刻まれた中世の墓と石造物へと歩を進めていく。

参考文献・参考資料

本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものである。本文・写真・図面の転載は行っていない。史実・推定・伝承は本文中で区別して記している。鎌倉新仏教の広がりなどは一般的な概説に基づく説明であり、磐田の各寺院individualの由来を断定するものではない。

運営者より

受け継ぐということ

古代の大寺院は失われても、祈りと土地の記憶は中世へ受け継がれました。磐田の歴史を知ることは、何を残し、何を次へ手渡すかを考えることでもあります。

磐田物語の運営者である富士ヶ丘サービスでは、磐田で受け継がれてきた住まいや土地について、売る・買うだけでなく、どう残し、どう住み継ぎ、どう手放すかという視点からも相談を受けています。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。