遠江・見付のまちの歴史と文化
磐田物語まちの成り立ち / 旧磐田市の成り立ち【解説】

連載 まちの成り立ち 第一回 | 旧磐田市の記憶

旧磐田市の成り立ち
── 村から町、町から市へ

いまの磐田市の住所に残る「中泉」「二之宮」「西貝塚」などは、かつて独立した村の名だった。本記事では、江戸時代の村の記録から明治・昭和の合併までを、年表・比較表・地名対応表で整理し、旧磐田市がどのように成立したかを解説する。

天竜川 数十の村々 見付町 中泉町 磐田市 1948 村 → 町 → 市
図:江戸の村々が、明治の二つの町(見付町・中泉町)を経て、磐田町・磐田市へまとまる流れ(概念図)。

この記事の要点

旧磐田市とは

旧磐田市きゅういわたし

2005年(平成17年)の市町村合併より前の磐田市を指す通称。おおむね見付・中泉を中心とする範囲で、本記事でもこの意味で用いる。2005年に竜洋町・福田町・豊田町・豊岡村と合併し、現在の磐田市になった。

現在の磐田市は静岡県西部(遠州)、天竜川の東側に位置する。市域の中央には磐田原台地が南北にのび、台地を割って今之浦川が流れる。旧磐田市の市街地は、この台地の南端(見付)と、その西の低地(中泉)に発達した。事実として、律令時代には遠江国の国府・国分寺が置かれた古代の中心地であり、江戸時代には東海道の宿場・見付宿でにぎわった地域である。

この記事は、その「旧磐田市」が数十の村からどのように一つの市へまとまっていったのかを、史料と地名の両面から整理するものである。

村を記録した、三つの帳面

江戸時代の村を知る基本史料が「郷帳(ごうちょう)」である。幕府が国ごとの絵図(国絵図)を作らせる際、あわせて村名と村高(むらだか=村の石高)をまとめさせた、公式の村名簿にあたる。旧磐田市域の村々も、これらの帳面に整然と記録されている。

村高むらだか

村ごとに定められた石高。年貢や役負担の基準となる、村の「公式の大きさ」を示す数値。同じ村でも帳面によって数字が異なることがある。

表1:旧磐田市域の村を記録した三つの帳面
帳面作成時期作成主体石高の性質・特徴
元禄郷帳
(元禄高帳)
元禄10年(1697)命〜元禄15年頃諸大名(国絵図とセット)表向きの石高(表高)を記載。古い郷土資料では「元禄高帳」とも呼ばれる。
天保郷帳天保2〜5年(1831〜34)幕府勘定所が直接作成新田高などを含む、より実情に近い石高(実高)を記載。
旧高旧領取調帳明治初期明治政府江戸末期の村名・旧高に加え、誰が支配していたか(旧領)まで記録した目録。

解釈になるが、三つを並べて読むと、同じ村の石高が時代とともにどう動いたか、そして誰の支配下にあったか――幕府直轄地(天領)か、旗本知行地か、社寺の除地を抱えていたか――が見えてくる。村は、数百年にわたり課税と支配の「単位」として安定して存在し続けた。

見付と中泉 ── 二つの中心の違い

旧磐田市を理解する鍵は、見付と中泉という性格の異なる二つの中心が並び立っていた点にある。近接しながら、役割も属する郡も違っていた。

表2:見付と中泉の比較
項目見付(みつけ)中泉(なかいずみ)
立地磐田原台地の南端台地の西、天竜川寄りの低地
性格東海道の宿場町(見付宿)天領を治める代官所の町
古代遠江国府・国分寺・国総社(淡海國玉神社)府八幡宮・古墳群が近接
近世の中心施設本陣・脇本陣・旅籠中泉御殿(家康)・中泉代官所
もとの郡磐田郡豊田郡(1896年に磐田郡へ)
近代化の画期旧見付学校(1875)中泉駅=現・磐田駅の開業(1889)

事実として、見付は古代の国府・東海道の宿場として早くから開けた町であり、中泉は徳川の天領を束ねる行政の拠点だった。近代に入り、東海道線の駅が街道の見付ではなく低地の中泉に置かれたことが、その後のまちの重心を動かしていく。

見付は道と信仰と学びの町、中泉は政(まつりごと)と物流の町。性格の違う二つの中心が一つの市になるまでに、およそ半世紀の歳月が流れた。

村から市へ ── 合併の年表

無数の村が一つにまとまる流れは、次の年表に整理できる。骨格となるのは 1889 → 1940 → 1948 の三つの年である。

表3:旧磐田市の合併・行政の歩み
できごと
1875(明治8)見付学校が完成(現存最古級の木造擬洋風校舎)。
1889(明治22)町村制施行。見附宿が見付町に、豊田郡中泉町と山名郡二ノ宮村が合併して中泉町に。
1896(明治29)郡の再編。中泉町の所属が豊田郡から磐田郡へ。
1929(昭和4)中泉町が梅原村を編入。
1940(昭和15)見付町・中泉町・西貝村・天竜村が合併し、磐田町が発足(11月1日)。
1948(昭和23)磐田町が市制施行し、磐田市となる(4月1日)。
1955〜57大藤・向笠・御厨・南御厨・長野・岩田・田原・於保(一部)の各村を順次編入。
2005(平成17)竜洋町・福田町・豊田町・豊岡村と合併し、現在の磐田市が発足。
1889 見付町 中泉町 1940 4町村合併 → 磐田町 1948 市制施行 磐田市 誕生 1955–57 周辺の村を 順次編入 2005 4町村と 新設合併 村 → 町 → 市。およそ百十六年の歩み
図:旧磐田市域における合併の主な節目。
注意:磐田町の成立年(1940か1942か)

市の概説には「見付と中泉の合併=1942年(昭和17)」とするものもある。しかし詳細な自治体沿革・郷土資料は、いずれも磐田町の成立を1940年(昭和15)11月1日とする。これは資料間で揺れのある点で、本記事では複数資料が一致する1940年を採った。確定的な一次史料による裏づけは今後の課題である。

旧村名は、いまどこに残るか

合併を重ねても、旧村名の多くは消えていない。事実として、現在の大字・地区名として住所のなかに残り続けている。代表的な対応を表に示す。

表4:旧村・旧町名と、現在の主な地名(例)
旧村・旧町現在の地区現在に残る主な地名
見付町見付地区見付(一番町・二番町・中川町・元天神町ほか)
中泉町・二ノ宮村中泉地区中泉・二之宮・二之宮東・国府台
西貝村西貝地区西貝塚・安久路・西之島
天竜村・梅原村天竜地区天龍・上岡田・下岡田・千手堂・万正寺
御厨村御厨地区鎌田・新貝・稗原・東貝塚
岩田村岩田地区匂坂上・匂坂中・寺谷

解釈になるが、住所の大字をひとつずつ地図に置き直すと、消えたはずの旧村の輪郭がうっすら浮かび上がる。ただし地名は不変ではない。2005年の合併時には、旧磐田市と旧豊田町の双方にあった「大原」「一言(ひとこと)」のように区域を統合した例もある。

「事実・解釈・推測」を分けて読む

地域史を読むときは、確かなことと、そうでないことを区別すると見通しがよくなる。本連載の立場を整理しておく。

三つの区別(本記事の場合)

よくある疑問(FAQ)

Q「磐田」という名前はいつからのものですか。

もとは郡の名でした。「磐田郡」の名が、1940年に見付町・中泉町などが合併して磐田町が成立したとき、はじめて町の名として使われました。市になったのは1948年です。それ以前、まちの中心は「見付」「中泉」と呼ばれていました。

Q見付と中泉は、どちらが「磐田の中心」だったのですか。

時代によって異なります。古代〜江戸は、国府・宿場のあった見付が中心。近代に東海道線の駅(中泉駅=現・磐田駅)が中泉に置かれてからは、中泉側に商業・行政の重心が移っていきました。現在の市役所は国府台、駅は中泉にあります。

Q住所の「二之宮」「西貝塚」も昔は村だったのですか。

はい。いずれもかつて独立した村で、明治以降の合併で大字・地区名として残りました。二之宮は1889年に中泉町へ、西貝塚は西貝村として1940年に磐田町を構成しています(表4参照)。

Q旧磐田市と今の磐田市は、範囲が違うのですか。

違います。2005年に竜洋・福田・豊田・豊岡の各町村と合併し、市域が大きく広がりました。本記事の「旧磐田市」は、それ以前の見付・中泉を中心とした範囲を指します。

もっと知るための手がかり

調べる場所
磐田市立図書館(『磐田市誌』、角川『日本地名大辞典22 静岡県』ほか地域資料を所蔵)。
地図で見る
国土地理院の旧版地形図・空中写真で、旧町名や旧道の位置を現在と重ねられる。
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第二回・中泉第十回・磐田郡磐田の地名

主な参考

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