磐田の米作りのはじまり
弥生時代の土器・石器・ムラの跡から、磐田の農耕社会の入口を読む
磐田で米作りが始まったころ、人びとはどこに住み、どこに田を開いたのだろうか。現在の御厨を歩くと、鎌田・新貝の低地、西貝塚から城之崎へ続く台地南部、田原や中泉へ向かう平地が、それぞれ別の風景として目に入る。けれども弥生時代の人びとにとって、それらは切り離された場所ではなかったはずである。
米作りは、ただ水田ができたという話ではない。土器が変わり、石器が使われ、ムラが水辺に寄り、墓がまとまりを持ちはじめる。その変化の中で、磐田原台地と今之浦周辺の低地、そして御厨の鎌田・新貝周辺は、人びとの暮らしを受け止める舞台になっていった。
目次
第一章「米作りのはじまり」は、思ったほど単純ではない
資料この記事は、磐田市教育委員会『平成6年度 磐田市歴史セミナー資料集』第2回「磐田の米作のはじまり」(講師・竹内直文氏、7月16日)をもとに、磐田物語として再構成したものである。資料は、米作りの開始を、弥生土器、石器、住居、墓、ムラ、文献資料から考える内容になっている。
米作りのはじまりを考えるとき、すぐに「いつから水田稲作が始まったのか」と聞きたくなる。しかし、その答えは単純ではない。縄文時代に稲や米がまったくなかったのか、水田稲作と呼べる営みがどこから始まるのか、資料だけで一線を引くのは難しい。
弥生時代になると、中国の史書にも倭人の農業や暮らしに関する記事が見えるようになる。けれども、文字資料だけで磐田の田んぼやムラの姿が分かるわけではない。土器、水田跡、農耕具、住居跡、墓、集落の立地を合わせて見て、ようやく農耕社会の輪郭が少しずつ現れる。
「米作り」と聞くと、広い田んぼが一面に広がる風景を思い浮かべやすい。現在の御厨や田原、鎌田周辺の水田を知っていれば、なおさらそうである。しかし弥生時代のはじめから、現在のような整った田園が広がっていたと考えるのは早い。小さな湿地、浅い低地、水を受けやすい自然堤防の周辺、台地の縁に近い場所で、人びとは水と土を試しながら暮らしていた可能性がある。
鎌田・新貝、西貝塚、城之崎、御厨古墳群の周辺は、低地と台地南部が近接する。米作り、ムラ、墓、古墳への流れを地形の中で見るには、御厨はよい入口になる。
第二章登呂遺跡の風景だけでは見えない弥生の田
弥生時代の水田と聞けば、静岡市の登呂遺跡を思い浮かべる人は多い。水田、集落、木製農具、倉のイメージは、長く教科書の中で弥生時代を代表してきた。登呂遺跡は、弥生の農耕社会を考えるための大切な資料である。
ただし、登呂の風景をそのまま全国の弥生社会の標準形にしてはいけない。資料では、登呂遺跡の水田について、教科書的な大水田のイメージを見直す視点が示されている。実際の水田区画は小さく、湿地に近い場所で、水をどう入れ、どう抜き、どこを畦で区切ったのかを考える必要がある。
磐田で米作りを考える場合も同じである。今之浦周辺の低地、御殿・二之宮の周辺、鎌田・新貝方面の平地は、水に近い一方で、洪水や湿地の問題を抱えていたはずである。田を開くには、ただ平らな土地があるだけでは足りない。水が多すぎても少なすぎても困る。泥の深さ、排水、畦の維持、住む場所との距離が、毎日の作業に関わってくる。
御厨の土地を見ると、低地と台地の関係が身近に分かる。西貝塚から城之崎へ向かう台地南部と、鎌田・新貝の低地は近い。住む場所を少し高い場所に置き、水田を低い場所に置くという関係は、弥生時代のムラを考えるときに自然な発想である。ただし、どの遺跡が最初の田を直接示すのかは、この資料だけで断定できない。
第三章石庖丁が語ること、語らないこと
石庖丁は、弥生時代の稲作を象徴する道具として知られる。稲の穂を摘むための道具として説明されることが多く、米作りの始まりを考えるときに必ず登場する。しかし、石庖丁が出るか出ないかだけで、その地域に米作りがあったかを決めることはできない。
資料歴史セミナー資料では、石庖丁がどこでも同じように見つかるわけではないこと、稲の収穫方法を単純に考えられないことが扱われている。石庖丁が少ない地域では、木製具や別の収穫方法が使われた可能性もある。
道具は、残りやすさに差がある。石は残りやすいが、木は腐りやすい。湿地や低地で保存条件がよければ木製品が残ることもあるが、ふつうは失われやすい。したがって「石庖丁がないから米作りがなかった」とは言い切れない。逆に、道具の出方の違いから、地域ごとの農耕の姿が違っていた可能性を考えることができる。
稲作社会に入っても、人びとは米だけで生きていたわけではない。木を伐り、加工し、住居や道具を作る。弓矢で動物を追い、川や湿地から食べ物を得る。石斧、石鏃、石庖丁のような道具を合わせて見ると、農耕、狩猟、木工が混ざり合った生活が見える。
御厨周辺の弥生社会を考えるときも、田んぼだけを切り出さないほうがよい。鎌田・新貝の低地、西貝塚周辺の古い海岸線、城之崎の丘陵、田原方面の平地は、それぞれ水、土、木、石、食料の得方が違ったはずである。道具は、その違いを読むための小さな入口である。
第四章磐田で最初に米を作った人びとはどこにいたのか
磐田で最初に米を作った人びとを、特定の一つの集落に決めつけることはできない。初期の米作りを直接示す資料は限られている。けれども、弥生土器、石器、住居跡、墓のあり方を重ねると、農耕社会へ移っていく動きは見えてくる。
資料には、磐田周辺の弥生時代の遺跡として、鎌田・新貝、御殿・二之宮、向笠、豊岡、匂坂などに関わる図や説明が出てくる。これらを現在の地図に戻して考えると、東海道筋、台地縁辺、低地、水辺との関係が見えてくる。御厨に分類するこの記事では、とくに鎌田・新貝、西貝、城之崎、御厨古墳群へつながる地形を意識したい。
鎌田・新貝周辺は、低地と水田を考えるうえで外せない。西貝塚や東貝塚の地名は、縄文海進や古い海岸線を考える入口になる。城之崎遺跡は、磐田原台地南部の丘陵上に弥生後期の住居跡と古墳が重なる場所である。これらは時代も性格も同じではないが、御厨周辺に暮らしの舞台が積み重なってきたことを示している。
米作りが始まるということは、田だけができることではない。家があり、家族や集団があり、作業の道具があり、収穫したものを扱う場所がある。墓を営む場所も必要になる。田と家と墓が、どのような距離感で置かれていたのか。そこを考えると、弥生のムラは単なる点ではなく、周囲の低地や台地と結びついた生活圏として見えてくる。
第五章土器の形は、人の動きと地域のつながりを映す
資料資料には、遠賀川式土器、遠賀川式土器の地域差、水神平式土器、後期前葉・後期後葉の土器などの図が掲載されている。ここでは図版そのものは転載せず、土器を地域間の関係を考える資料として扱う。
遠賀川式土器は、弥生文化の広がりを考えるうえでよく知られる資料である。土器の形や模様が変わることは、単に器の流行が変わったというだけではない。食べ物の扱い方、貯蔵、煮炊き、儀礼、人の移動、地域間の接触が、その背後にある可能性がある。
ただし、土器が伝わることと、人そのものが大きく移住したことは同じではない。器の作り方だけが伝わったのか、作る人が動いたのか、婚姻や交易を通じて少しずつ変わったのか。そこには複数の可能性がある。三河、遠江、駿河、さらに西日本と東日本の関係を、土器だけで一気に説明することは避けたい。
磐田は、東西の文化が通過し、交わる位置にあったと考えられる。見付や中泉が後に交通の要地となることを思えば、弥生時代にもこの地域が孤立した場所ではなかったことは想像しやすい。御厨の低地や台地南部も、海、川、台地の道を通じて、人やものの動きの中にあったのではないか。
第六章ムラは水辺に近く、しかし水に呑まれない場所を選んだ
弥生のムラは、なぜそこにあったのか。これはこの記事の中心に置きたい問いである。低地すぎる場所は洪水の危険がある。高すぎる場所は水田に水を引きにくい。台地の縁、自然堤防、川沿い、湿地の近くに暮らす意味は、その中間にある。
磐田原台地から今之浦低地へ下りる地形を考えると、水田に近いことと洪水を避けることを両立させる必要があったと分かる。御厨でも、台地南部の丘陵と低地は近い。住まいを少し高い場所に置き、田や湿地利用の場へ下りる。そうした距離感は、現在の住宅地や田畑の配置にも、どこかで重なって見える。
資料には、御殿・二之宮遺跡、鎌田・新貝遺跡、向笠中下4遺跡、豊岡高校南遺跡、加茂東原遺跡、浜松市蜆子・伊場遺跡、大塚・歳勝土遺跡などの図が掲載されている。すべてを磐田市内の同じ条件として扱うことはできないが、ムラのありかを考えるうえで、低地、自然堤防、台地縁辺という視点は共通している。
現在の磐田では、住宅地、田畑、道路、工場、商業施設がそれぞれの場所に広がっている。しかし、その下には、もっと古い「水に近い場所をどう使うか」「高い場所にどう住むか」という選択が重なっている。弥生のムラを読むことは、現在の土地利用を見る目を変える作業でもある。
| 見る要素 | 弥生時代に考えたい条件 | 御厨周辺で重ねたい場所感 |
|---|---|---|
| 水田 | 水を得やすいが、湿りすぎない低地 | 鎌田・新貝、田原方面の平地 |
| 住まい | 洪水を避けやすく、水田へ通える場所 | 西貝塚から城之崎へ続く台地南部 |
| 墓 | 集落と関係しつつ、生活空間と少し距離を置く場所 | 丘陵や台地縁辺に残る墓域・古墳への流れ |
| 道 | 台地と低地、水辺と集落をつなぐ線 | 御厨から見付・中泉・今之浦へ向かう地形の連続 |
第七章家、倉、墓がそろうとき、農耕の社会が見えてくる
米作りが始まるということは、単に田ができることではない。暮らしの単位が安定し、家があり、作業場があり、収穫物を保管する場所があり、死者を葬る場所がまとまりを持つことでもある。資料には、向笠周辺の住居跡や、新豊院山遺跡の住居跡図が掲載されている。
竪穴住居や掘立柱建物のような痕跡からは、当時の生活空間を想像できる。炉の位置、柱穴、床面、建物の向きは、そこに人が暮らしたことを示す。ただし、図面だけで家族構成や毎日の細かな行動まで断定することはできない。考古資料は、生活の骨格を残すが、声や匂いや季節の作業までは直接残さない。
墓は、弥生時代の共同体を考える大切な資料である。方形周溝墓、土器棺、墓地のまとまりは、死者をどのように扱ったかを示す。米作りによって定住性が高まり、集落や墓地がまとまりを持つようになった可能性がある。
墓の大きさや形の違いは、身分差や家族単位、地域差を考えるきっかけになる。ただし、身分社会の成立を早く断定しすぎるのは避けたい。弥生後半から古墳時代へ向かう流れの中で、墓の形、ムラのまとまり、生産物の蓄積が少しずつ変わっていったと見るほうがよい。
第八章銅鐸と魏志倭人伝から見える、列島の中の磐田
資料には「磐田に銅鐸はあるか」という論点がある。豊岡村の銅鐸に描かれた絵の拓影も掲載されている。銅鐸は弥生時代の祭祀や地域社会を考える資料であり、米作り社会の精神面と切り離せない。
農耕社会では、収穫、水、季節、共同体の祈りが大きな意味を持った可能性がある。銅鐸を宝物として眺めるだけでなく、田を開き、収穫を願い、水害を恐れ、集団で生きた人びとの心の動きと結びつけて考えたい。
魏志倭人伝は、弥生時代後半の日本列島を考える文献資料である。そこには倭人の生活、風俗、食事、社会、武器、環境などに関わる記述がある。ただし、魏志倭人伝は磐田を直接説明しているわけではない。磐田の遺跡資料と安易に直結することはできない。
それでも、農耕、集落、身分、税、市場、武器、風俗を考える補助線にはなる。遠江の磐田に生きた人びとは、この列島規模の変化と無関係ではなかった。御厨の低地や台地南部に残る遺跡を、磐田だけの小さな話として閉じず、三河・遠江・駿河、さらに列島全体の動きの中で見る必要がある。
第九章弥生から古墳へ――米作りが変えたもの
弥生後半になると、生産力が高まり、人口が増え、集落のまとまりも強まったと考えられる。富や身分の差、地域間の力の差が生まれてくる。大きな墓やムラのまとまりは、古墳時代への入口になる。
磐田の古墳時代は、突然始まったのではない。米作り、ムラ、墓、地域間交流の積み重ねの先に古墳時代がある。御厨古墳群や城之崎の古墳を見るときも、その前にあった弥生の暮らしを忘れないほうがよい。古墳の下には、さらに古い住まい、田、道、墓の時間が眠っている。
弥生時代の米作りは、磐田の土地に新しい時間の層を加えた。土器の形が変わり、石器の使われ方が変わり、ムラの場所が定まり、墓のあり方も変わっていく。その変化は、やがて古墳時代の大きな墓と地域社会へつながっていった。
田んぼの下、住宅地の下、道路の下には、そうした選択の跡が眠っている。磐田の古代史を読むことは、遠い昔を眺めることではない。今、自分たちが立っている土地が、どのような水と土の上に成り立ってきたのかを確かめる作業でもある。
参考資料
- 磐田市教育委員会『平成6年度 磐田市歴史セミナー資料集』第2回「磐田の米作のはじまり」、竹内直文、7月16日。
- 同資料掲載図版:遠賀川式土器・水神平式土器などの土器図、土器編年と地域比較、住居跡図、方形周溝墓、遺跡分布図、銅鐸拓影、魏志倭人伝関連資料ほか。
- 本ページは、上記資料をもとに、磐田物語として地形・遺跡・現在の土地利用との関係を加えて再構成したものです。原資料の本文をそのまま転載するものではありません。