この記事の要点
- 「国府台(こうのだい)」も「府八幡宮(ふはちまんぐう)」も、古代の遠江国府(国を治める役所)に由来する名である。
- ただし国府(国庁)の正確な位置は今も未確定で、国分寺の北側付近とする説、磐田駅南の御殿・二之宮遺跡とする説などがある。
- 府八幡宮は「国府八幡(こくふはちまん)」、つまり国府に付属して置かれた八幡と伝わり、国府の近くを示す手がかりとされる。
- 現在の磐田市役所は国府台にあり、古代の行政の中心が、地名を介して現代の行政の中心とゆるやかに重なっている。
- 所在地論は決着していない。本記事は「事実・解釈・推測」を分けて諸説を並べる。
「国府台」とはどういう地名か
磐田駅の北西、中泉地区の一画に「国府台」という地名がある。旭ケ丘・泉町・久保町・坂上町・桜ケ丘・中央町・西新町・本町といった町名を含む市街地で、現在の磐田市役所もこの国府台に立地する。読み方は「こうのだい」である。
磐田市中泉地区にある地名。古代の「国府(こくふ)」に由来し、「国府の(あった)台地」の意と解される。読みは「こうのだい」で、千葉県市川市の国府台(こうのだい)など全国にある同系の地名と語源を同じくする。
事実として、「国府」は律令制のもとで国ごとに置かれた役所、すなわち国の政治・行政の中心を指す語である。その「国府」の名が地名として残っているということは、この一帯が古代の遠江国の中枢と何らかの関わりをもっていたことを強くうかがわせる。解釈になるが、地名は土地の記憶を最も長く保つ器であり、千年を超えて「国府」を名のり続けてきたこと自体が、ひとつの史料的な意味をもつ。
ただし注意したいのは、地名「国府台」が現在指す範囲と、古代の国府が実際に置かれた場所とが、必ずしも一致するとは限らないことである。地名は時代とともに範囲が動く。「国府台」の名は古代の中心の近傍を示す手がかりではあるが、それだけで国府の正確な位置が定まるわけではない。この点は後述する所在地論の核心にあたる。
そもそも「国府」とは何か
地名と神社名を読み解く前に、古代の「国府」という制度を押さえておく。
律令制のもとで、国ごとに置かれた地方行政の中心地。中央から派遣された国司が政務をとった。狭義には国司の役所そのもの(国庁)を指し、広義には国庁を中心に役所・国分寺・市などが集まった政治都市の全体を指す。遠江国の場合、その所在地が現在の磐田市域にあったことは確実とされる。
国府の中核となる、国司が政務・儀式を行った中心施設。正殿・脇殿などからなる方形の区画をもつことが多い。遠江国の国庁の正確な位置は、現時点では確定していない。
律令制の国の一つ。現在の静岡県西部にあたる。「遠(とおつ)淡海(あわうみ)」=遠くの淡水湖(浜名湖)に由来する。その国府が置かれたのが、現在の磐田市域である。
事実として、遠江の国府が磐田にあったことは、地名・神社名・近接する国分寺跡(特別史跡・遠江国分寺跡)などの状況から、研究上ほぼ確実とされている。聖武天皇の741年(天平13年)の詔によって全国に国分寺・国分尼寺が建立されたが、国分寺は一般に国府の近くに置かれた。遠江国分寺跡が磐田にあること自体が、国府も同じ磐田にあったことの有力な傍証となる。詳しくは 遠江国府 および 遠江国分寺 の各ページを参照されたい。
国府は単独で存在したのではない。国庁を中核として、国司の館、税を納める正倉、文書を扱う役所、市(いち)、そして国分寺・国分尼寺・総社といった宗教施設が、一帯にまとまって置かれた。いわば古代の地方都市である。解釈になるが、磐田に残る国分寺跡・府八幡宮・淡海國玉神社(総社)・地名「国府台」といった要素は、ばらばらの遺物ではなく、この一つの古代都市を構成していた部品とみることができる。各要素の位置を地図上に置いてみると、古代の中枢圏のおおよその広がりが浮かび上がってくる。
問題は、その中核にあたる国庁が「磐田のどこか」である。国分寺跡のように礎石や区画が残り、特別史跡に指定されている遺跡とは異なり、国庁そのものの位置は、いまなお確定していない。これが本記事の中心的な論点である。発掘によって官衙(かんが=役所)の遺構らしきものが見つかっても、それが国庁そのものか、付属の役所か、あるいは別の施設かを断定するには、なお慎重な検証が要る。
府八幡宮 ──「府」を名にもつ神社
国府台の地名と並んで、「府」を名にもつもう一つの重要な手がかりが、府八幡宮(ふはちまんぐう)である。中泉地区の府八幡宮は、地元で「国府八幡(こくふはちまん)」とも呼ばれてきた。
磐田市中泉に鎮座する神社。社名の「府」は国府を指し、「国府八幡(こくふはちまん)」とも称される。遠江国府に付属して、あるいは国司の崇敬を受けて祀られたと伝えられる。社伝では奈良時代、遠江守として赴任した桜井王(さくらいおう)の勧請を起源とするとされるが、創建の経緯には伝承的な部分も含まれる。
事実として、社名に「府」を冠することは、この神社が国府と密接な関係をもつものとして位置づけられてきたことを示す。各地の国府の近くには、しばしば国司や国府に縁の深い八幡社(いわゆる「府八幡」「国府八幡」)が見られ、府八幡宮もこの系譜に連なるものと理解されている。
解釈になるが、地名「国府台」と神社名「府八幡宮」が、いずれも国府を指す「府」を共有してこの一帯に残っていることは偶然ではないだろう。二つの名は、互いに補強し合いながら、古代の中心がこの近辺にあったことを伝えている。地名は人の口を通じて、神社は祭祀を通じて、それぞれ別の経路で「府」の記憶を運んできた。文字資料が乏しい古代地方史において、こうした地名・社名は、遺構と並ぶもう一つの史料群として重視される。これは推測の域を出ないが、府八幡宮の鎮座地は、国府の所在地を推定するうえで重要な定点の一つとして扱える可能性がある。ただし、神社の現在地が古代以来一貫していたかどうかは別途検討を要する。社地が移されたり、後世に再建されたりした例は各地にあり、現在地をそのまま古代の位置とみなすことには慎重でなければならない。府八幡宮そのものの由緒は 府八幡宮 のページに詳しい。
総社という考え方
国府の周辺を理解するうえで、「総社(そうじゃ)」という制度も知っておくと見通しがよくなる。
国内の主要な神々をまとめて祀った神社。国司が赴任の際、国内の神社を一社ずつ巡拝するかわりに、総社へ参拝することで巡拝に代えたとされる。多くの場合、国府の近くに置かれた。
遠江国の総社については、見付の 淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ) がこれにあたるとされる。事実として、淡海國玉神社は見付に鎮座し、国府の総社と位置づけられてきた。
ここで一つの論点が生じる。総社・国分寺・府八幡宮といった国府に関わる施設が、見付(淡海國玉神社)と中泉(府八幡宮・国府台)の両方の地区に分散して残っていることである。解釈になるが、これは古代の国府都市が、現在の見付・中泉という二つの市街地にまたがる広がりをもっていた可能性を示唆する。見付と中泉が近代以降に別々のまちとして発展した経緯は 第一回・旧磐田市の成り立ち や 第二回・中泉 で扱ったが、その分かれ目のさらに前、古代にはひとつの中枢圏だったとも考えられる。
遠江国府はどこにあったか ── 所在地論
ここからが本記事の核心である。遠江国府(とくに国庁)の位置については、いくつかの説が並び立ち、決着していない。代表的な見方を整理する。
| 説 | 想定される位置 | 根拠・手がかり | 位置づけ |
|---|---|---|---|
| 国分寺北側説 | 遠江国分寺跡の北側〜磐田北小学校付近 | 国分寺は一般に国府の近くに置かれた。特別史跡である国分寺跡を定点とし、その北方に国庁を想定する。 | 古くから有力視されてきた見方の一つ。確定はしていない。 |
| 御殿・二之宮遺跡説 | 磐田駅の南側、御殿・二之宮遺跡の一帯 | 大規模な建物跡や官衙(かんが=役所)的な遺構が確認され、国府に関わる施設の候補とされる。 | 発掘成果にもとづく近年の有力な候補。なお検討が続く。 |
| 国府台周辺説 | 地名「国府台」および府八幡宮の周辺 | 「国府」を残す地名と「府」を冠する神社の存在。 | 地名・社名による傍証。決め手にはなりにくい。 |
事実として整理できるのは、遠江国府が現在の磐田市域にあったこと、そして国分寺跡が特別史跡として確定していることである。一方、国庁そのものの正確な位置は、現時点では確定していない。これは資料・遺構の制約による、まさに「推測」「諸説」の段階にある事項である。
解釈になるが、これらの説は必ずしも互いに排他的とは限らない。国府都市は時代を追って区画が移動・拡張することがあり、ある時期は国分寺北側、別の時期は御殿・二之宮遺跡の側、というように、中心が移ろった可能性も否定できない。これは推測の域を出ないが、地名「国府台」や府八幡宮は、そうした広い中枢圏のなかの一点を、後世にまで伝える標識として残ったのかもしれない。御殿・二之宮遺跡の詳細は 御殿・二之宮遺跡 のページに譲る。
国分寺跡は地に残り、国庁は地名と社名に残った。確かな遺跡と、確かでない位置。そのあいだに、千三百年ぶんの問いがある。
千三百年の連続 ── 古代から現代へ
所在地論は未確定だが、はっきりしていることがある。古代の「国府」を起点とする名が、長い時間をまたいで現在まで生き残っているという事実である。年表で見ると連続のかたちが見えてくる。
| 時期 | できごと | 区分 |
|---|---|---|
| 7〜8世紀 | 律令制のもと、遠江国に国府(国庁)が置かれる。位置は磐田市域とされるが詳細は未確定。 | 事実/一部推測 |
| 奈良時代 | 府八幡宮が、国府に縁の社として祀られたと伝わる(社伝では桜井王の勧請とも)。 | 伝承 |
| 741(天平13) | 聖武天皇の詔により国分寺建立。遠江国分寺が国府の近くに置かれる。 | 事実 |
| 平安期以降 | 国府の機能はしだいに衰え、政治の中心は時代とともに移る。「国府」の語は地名・社名に残る。 | 解釈 |
| 中世〜近世 | 見付が東海道の宿場、中泉が天領の代官所の町として発展。府八幡宮・国府台の名は残り続ける。 | 事実 |
| 近現代 | 地名「国府台」が市街地の住所として継承される。 | 事実 |
| 現在 | 磐田市役所が国府台に立地。古代の行政中枢圏と現代の行政中心がゆるやかに重なる。 | 事実 |
地名「国府台」が現在指す区域と、古代の国庁の実際の位置とは、必ずしも一致しない。地名は範囲が移ろう。「国府台」は古代の中枢圏の近傍を示す貴重な手がかりだが、それ単独で国庁の位置を確定する根拠にはならない。所在地論は遺構の発掘と検証によってのみ前進する。
国府台の現在の地名
最後に、現在の国府台がどのような町名を含むかを確認しておく。古代の名を冠したこの一帯は、いまも磐田市の行政・市街の中心の一画である。
| 町名 | 備考 |
|---|---|
| 中央町 | 市役所周辺。行政・公共施設が集まる。 |
| 本町 | 市街地の一画。 |
| 旭ケ丘 | 住宅地。 |
| 泉町 | 住宅地。 |
| 久保町 | 住宅地。 |
| 坂上町 | 台地の縁にあたる地形を反映した町名。 |
| 桜ケ丘 | 住宅地。 |
| 西新町 | 市街地の一画。 |
事実として、これらの町名は中泉地区のうち「国府台」と総称される範囲に含まれる。解釈になるが、「坂上町」のように台地のへりの地形を映した町名が混じっているのは、国府台が文字どおり「台(台地)」の地形上にあることをうかがわせる。台地のへりに村々が並ぶ地形の読み方は 第七回・匂坂・寺谷・岩田 でも扱った。
これは推測の域を出ないが、台地という地形は、古代の役所を置く立地としても合理的だった可能性がある。低地よりも水害に強く、見晴らしがきき、周囲を治める拠点として適している。国府がこの台地の一帯に営まれたとすれば、地形と政治の中心、そして現代の市役所の立地が、千三百年を隔てて同じ台地の上で重なることになる。むろん、これを裏づけるには遺構による検証が欠かせない。
古代からの連続した地名をもつ土地では、古い字名や境界、長く受け継がれてきた家や敷地が、現在の登記や相続の場面で意味をもつことがある。土地の名は、歴史の記録であると同時に、暮らしと所有の記録でもある。
よくある疑問(FAQ)
古代の「国府」に由来します。律令時代、遠江国を治める役所(国府)が磐田市域に置かれ、その「国府」の名が「国府台(こうのだい)=国府のあった台地」として残ったと解されています。ただし国府の正確な位置と、現在の地名「国府台」の範囲とは、必ずしも一致しません。
正確な位置はまだ確定していません。遠江国府が磐田市域にあったことは確実とされますが、その中核施設(国庁)の場所については、遠江国分寺跡の北側付近とする説、磐田駅南の御殿・二之宮遺跡を候補とする説などがあり、決着していません。発掘と検証によって今後さらに明らかになる事項です。
「府」は国府を指します。府八幡宮は「国府八幡(こくふはちまん)」とも呼ばれ、遠江国府に縁の深い八幡社として祀られたと伝えられます。社名に「府」を冠すること自体が、この神社と国府との結びつきを示しています。
国分寺は一般に国府の近くに置かれました。遠江国分寺跡は特別史跡として位置が確定しており、これを定点として国府(国庁)を国分寺の北側付近に想定する説があります。国分寺の存在は、国府が同じ磐田にあったことの有力な傍証になっています。
市役所は国府台にありますが、古代の国庁跡そのものに建っていると断定はできません。市役所が立地する国府台は古代の国府に由来する地名で、古代の中枢圏と現代の行政中心がゆるやかに重なっている点は興味深い事実です。ただし国庁の正確な位置は未確定であり、市役所の場所=国庁跡とまでは言えません。